下古賀

下古賀

■所在地佐賀市東与賀町下古賀
■登録ID1117

下古賀は上古賀の直ぐ南部に位置し、東は上町に西は田中に相近接している。昔から下古賀と上古賀および田中とは関係が深く、この三村に姻戚関係も多いことから、村の成立も相前後してできたのではないか。上古賀八幡神社の境内にある太神宮碑の側面に、蒲原治兵衛・徳久善蔵・徳久源之允等下古賀在住の姓名が刻まれてあるがその事情が推測される。その事は郷村帳にも「田中村の上古賀からの移住によってできた干拓村と見られる」と述べてある。
この下古賀は、明治10年頃より昭和8年に至る約60年間にわたり、わが東与賀村創世時代の役場所在地である。往時はわが村の政治・産業・文化発展の中心地として、中枢機関たる村役場所在地として、活動し貢献した村落である。その役場は石丸氏の家屋であるが既に改造されており、今に残るのは当時の石の門柱および石垣等で当時の遺跡としては、由緒もあり永久に残すに価値あるものと思われる。その門柱に長年月の間掲げられた因縁深い木製の村役場標札が残っているが、往時を偲(しの)ぶに充分である。
この由緒ある土地であるために小邑に過ぎないが昔からこの下古賀に人物が輩出している。故江口元太郎は、理学博士で海軍大学校の教授をつとめ特に潜水艦や電気器具の発明に貢献した。その従弟の故江口倉市は海軍大佐・故森川仁四郎は東与賀村第8代村長を務め、故福田与一は元助役、収入役を永年にわたり勤務、故徳久萬太郎も村会議員や農地委員の長老として活躍した。最近では故南川清一剣道七段(90歳で没)がいた。大正の初期以来実に60数年にわたり剣道一途に、現職を退いても自宅の小屋や庭先を武道場として、後輩の指南と指導に精進した。
下古賀における従来の戸数は42戸、明治40年の頃は30戸内外であったが漸次に増加した。それに町営住宅が建設され、昭和53年に24世帯(2棟建)が54年にも更に1棟が完成して、人口も一挙に140名の増加となった。この住宅に住む人の条件としては、元から東与賀在住者に関係ある人で町内の因縁関係者が多い。かくて現在の世帯数は従前の2倍を超えて88世帯にふくれ上がった。各棟毎に班長3名を任命し自治組織のもとに明るく健全な団地運営がなされている。

出典:東与賀町史P1171