検索結果 RESULT
[指定文化財][佐賀市][歴史資料]は6件登録されています。
指定文化財 佐賀市 歴史資料
-
石長寺中興記碑(1基)
重要文化財
石碑は安山岩製で「石長寺中興記」の碑と亀趺という亀形を呈した台座からなる。文字は頂部に横書きで、表面に「石長寺」裏面に「中興記」を刻み、その下に縦書きで表裏ともに1行47文字で15行の文字を配する。 台座の亀趺は南向き(旧位置図では東向き)で、頭部を欠損している。亀趺は、現在までのところ、佐賀県下で約20例が知られているが、この「石長寺中興記碑」と多久市西渓公園内にある「大宝聖林■萬古長春石」碑以外は明治期のものであり、享保14年(1729)銘の「石長寺中興記碑」は正徳5年(1713)銘の「大宝聖林■萬古長春石」碑に次いで古いものである。 なお、「石長寺中興記碑」は石長寺境内に置かれているが、道路拡張により原位置ではない。 【銘文の内容(概要)】 医王山石長寺の創建時期や開山開基については不明である。中古に明室心光大姉(龍造寺隆信の妹)が中興したが、今は大姉の墳墓・霊碑が残るのみである。近年再び荒廃していたが、豪商柿久良悦が私財を投じて堂宇・庫裏・山門を新築し、本尊を補修するなどして石長寺を再興した。また、境内に法華経一万部読誦の回向塔や石造地蔵六体などを造立した。 「石長寺中興記碑」は、明室心光大姉、柿久良光・良悦、石長寺の略歴についてのほぼ唯一の資料であり、戦国時代末期から江戸時代中期にかけての佐賀の歴史を知る上で貴重な資料である。 また亀趺は、近世初頭に日本に伝わった石造物の洋式であり、本例は県下で最初期、全国的に見ても早い時期のものである。
-
江里天満宮石造多宝塔(1基)
重要文化財
多宝塔は凝灰岩製で、相輪及び屋根部分が失われて塔身のみとなり、基礎は別石である。 塔身には、浅い蓮華形の仏龕(高さ27㎝、幅20㎝前後)と、蓮の台座に坐した四方仏(蓮台含め像高20㎝前後)が刻まれている。また塔身の肩部、仏龕の上部左右に薬研彫りの種字8文字が刻まれている。 仏像は像容が不鮮明な部分もあるが、次のように推定できる。 ・智拳印を結んだ金剛界大日如来坐像(印相の手が通常の逆。) ・禅定印の釈迦如来坐像 ・阿弥陀定印の阿弥陀如来坐像 ・施無畏印(または与願印)に薬壺を持つ薬師如来坐像 種字は一辺10㎝前後の大きさで、大日如来の仏龕の左上から「ユ・ア・キリーク・ケン・バク・カン・ラン・バン」である。 この他、四方仏の仏龕と仏龕の間には造立銘が刻まれている。 【銘文の内容(概略)】 恵利二郎伴兼信の嫡子、左衛門尉伴兼時(法名正實)は、文暦元年(1234)10月8日に出家し、11月2日に往生した。父兼時の供養のため兼忠が大施主となり、この多宝塔を造立する。 銘文から、伴(恵利)氏三代の系譜及び伴氏が鎌倉幕府から所領を賜っていること、多宝塔の維持のために法浄寺の田地を寄進することなどがわかり、鎌倉時代の古文書としての史料的価値が高い。 また県内では鎌倉時代の多宝塔の作例が少なく、制作年代の明らかなものとしては、県内最古級のものであり、この多宝塔自体は塔身のみであるが、像容や種字、銘文の大半が判別できるなど保存状態が良く、刻まれた仏像や種字は、当時の地方領主の信仰形態を知る上でも貴重な資料である。
-
赤松小学校の校務日誌 一括
重要文化財
赤松尋常小学校は、明治41年(1908)に創立され昭和16年(1941)の赤松国民学校を経て、昭和22年(1947)に佐賀市立赤松小学校となって現在に至る。創立時には佐賀高等小学校及び市議会の一室をもって仮校舎としていたが、明治22年(1889)に佐賀城本丸跡の東半部に市立佐賀商業学校の新築完成後、西半部に新校舎を建て、平成5年(1993)までこの地に存続した。 この赤松小学校には、創立からの校務日誌が保存されている。日誌は墨書、ペン書き、ボールペン書き(鉛筆書き)と時代を追うごとに変化しているが、そこには校内の行事を中心に、当時の学校生活の内容が記されている。また、行事関係だけではなく、その時代の状況も推しはかられる記事があり、佐賀市の近現代の歴史を垣間見ることができる。 例を挙げれば、大隈重信や伊藤博文の死去に際しての学校としての対応、昭和大恐慌時の古賀銀行休業に関する人身動揺に対しての学校としての対処、戦時下の空襲の状況などがあり、校務日誌のなかにも所々に社会情勢が反映されている。 この日誌は、学校教育の歴史を物語るものとしてだけではなく、佐賀市の近現代の歩みを知ることのできる資料として貴重である。
-
木原隆忠の墓誌
重要文化財
木原隆忠(文政11年~明治12年、1821~1879)は、佐賀城下に生まれ、藩校弘道館に入学。そして江戸昌平黌に学び、後、弘道館教諭を務め、戊辰の役では参謀として江戸に入り、そして会津戦争に参画した。佐賀の役ではその善後策に尽くし、後には家塾を開いて子弟教育にあたるなど数々の功績を残している。 その徳を慕って、同志117名が建立した「木原先生之墓」が法蔵院(廃寺、伊勢町)跡の墓地にある。この墓から砂岩で加工された墓誌が出土し、現在法蔵院の本寺の大覚寺に保存されている。 墓誌は、死者を哀悼追慕して、金属板や塼、石などに姓名、経歴、没年、法名などを記して墓内に埋納する副葬品である。 この墓誌は、市内では多久安輝の墓誌についで2例目のものである。 この木原隆忠の墓誌は、肥前の近世墓誌の系譜をそのまま受け継いだ簡潔なものの一つであり、墓末~明治維新期を研究する上で、貴重な歴史資料である。
-
多久安輝の墓誌
重要文化財
多久安輝の墓誌は、県内では多久市の「川浪自安先生墓誌」に次ぐ2例目のものである。形状は縦7センチメートル、横35センチメートル、高さ16センチメートルで重箱状を呈し、石質は安山岩系である。 墓誌には、多久安輝の父は多久美作守で、五男。母を本藩主勝茂の二女とし、城内水ヶ江で生をうけ高木村にて数え69歳で没したことなどが記されている。安輝については多久家系譜にもその名が見え、生誕{正保2年(1645)9月29日}、没年月日{正徳3年(1713)5月14日}も一致するが、その人物に関しては詳しい資料がなく、今回の発見がその手がかりになると考える。また、慕誌の埋納は儒学隆盛を背景にして古代の風習を再度取り入れたもので、佐賀藩における儒学研究を行う上で重要な資料といえる。
-
木造了意和尚像
重要文化財
絶学了意和尚(了爲ともいう)は、小城郡古湯村(現佐賀市富士町)で山伏の子として出生。出家して川久保松陰寺に入り、元禄9年(1696)藩主鍋島綱茂の命で高伝寺19世住持となる。 2代藩主鍋島光茂が没し、2か月後の法要が済むと、黒土原の山本常朝の山屋敷朝陽軒に入り、常朝と同居した。朝陽軒はのちに高伝寺末寺として宗寿庵となり了意和尚が開山者となる。 宝永6年(1709)加賀国大乗寺住持となり、6年後に帰国した。享保11年(1726)に没す。山本常朝は元禄9年(1696)5月19日高伝寺の了意和尚より受戒。この了意和尚の木造の像が静元寺(開基、鍋島生三)に安置されている。 了意和尚は、葉隠の口述者山本常朝との交流が深く、湛然和尚とあわせて葉隠の成立に大きな影響を与えたことが考えられ歴史上重要な位置を占める人物である。そしてこの像は、了意和尚が死去した翌年享保12年(1727)に造られており、製作の時代、作者が確認できる資料として貴重で、造像技法も本格的であり歴史資料として、彫像として高く評価できる。