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[指定文化財][佐賀市][工芸品]は14件登録されています。
指定文化財 佐賀市 工芸品
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天女絵柄半鐘 一口
重要文化財
通常、口径1尺8寸(約54.5cm)以上のものを梵鐘と呼び、それより小型のものを半鐘という。(別の説もある)。この半鐘は、寛文11年(1671)に植木善兵衛が東光寺のために製作したことが銘文からうかがえ、総高46.3センチメートル、外口径は30.4センチメートルを測る。善兵衛鐘によく見られる天女(吹笙飛天)の絵柄が陽鋳されていて、植木(樹)善兵衛正住は江戸時代前半に活躍した佐賀の鋳物師で、およそ50個の鐘が県内各地の寺院などで確認されている。
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一石五輪塔
重要文化財
五輪塔は、仏教で言う地・水・火・風・空の五大をあらわすものとし、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種である。本来、五輪の各部を別石で造るのが一般的であるが、全体を一つの石で彫り出した様式を一石五輪塔という。 大分県臼杵市中尾の嘉応2年(1170)より始まり、一般の五輪塔とほぼ平行して造立されている。しかし、室町時代に入ると小型のものが近畿地方を中心に多出するようになるが、それらは、個人的な信仰色が強く、大きさも60センチメートル前後と小形化し、簡略化されるのが特徴であり、このことは、産地で量産されて搬出されたとみることができる。 多聞院の一石五輪塔は、総高91センチメートルで、一石五輪塔としては大型である。製作年代は室町時代と推定される。
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銅造弁財天坐像
重要文化財
弁才天は古代インドの五河地方の川の女神で農業神として崇崇された。のちに音楽神と知恵の神に転じ、さらに鎌倉時代以降は福徳神の性格が強くなり、七福神の一員に加えられた。 安龍寺の弁才天坐像は、像高57センチメートルで宝冠を被り、輪光背をつけ結跏趺坐をした像である。金光明経に説かれている8臂の弁財天像で、頭頂には鳥居と人頭蛇身の宇賀神を置き、宝珠と輪宝と雲文であしらった宝冠をかぶっている。髪にかかる前髪は耳の中ほどを通して後部の髪とまとめ、冠紐とともに両肩に垂れかかる。面相は福神にふさわしく弧を描く眉は三日月形に眉尻を下げ、目を細め、口元をゆるめて微笑する。 体部についてみると、8手のうち右側4本の手には宝剣、宝箭(ほうせん)、宝棒、羂索(けんさく)、左の4本の手にも宝珠、宝弓、輪宝、宝斧の順に持物をもたせている。両肩前に各1ヵ所、腹前に各1カ所、腹前にはくくった腹帯に沿って3ヵ所に瓔珞(ようらく)を懸け、体をにぎやかにしている。 本像の鋳像技術は確かで安定しており優れたできばえを示している。近世の鋳銅像はその殆どが戦中供出されて遺例が見当たらず、当時の信仰は勿論造像の技術について知る機会を得なかった。本像はそれを知る資料として貴重である。
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太田神社肥前狛犬 一対
重要文化財
肥前狛犬は江戸時代の前期を中心として製作された石造狛犬である。本県に分布する肥前狛犬の特徴は、一般的に小型であって極めて静的であり、弧線と直線とをもって大胆に造形されている。前肢を立て、後肢を前へ伸ばした側面観は四分の一円周に近く、正面観は長方形に近い。頭髪・尻尾などの細部の表現を省き、四肢と胴体の間は材石をそのまま残して、四肢や胴部の線を浮彫的に彫り出している。このような特色から現在拝殿前に向き合って安置されている狛犬とは基本的に性格が異なり、木造狛犬のように、神殿内に拝殿の方へ向け並列して安置されていた屋内狛犬であったと考えられているが、太田神社の狛犬は、肥前狛犬としては、比較的大きいものである。 像高は、雄57センチメートル、雌50センチメートルで、銘はなく製作年代は不明である。
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大黒天坐像
重要文化財
大黒天は、インド・中国では古くから寺院の守護・豊饒をつかさどった神であった。わが国でもはじめは護法善神として食堂に祀られていたが、近世以降はえびすとともに福神の代表的な存在となった。その像容は、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持って米俵の上に立つのが一般的である。 大黒天は、農村地帯では甲子待の主尊とされ、甲子講中の造立が多く、県内でも旧十一月子の日に二股大根を供えて祀る風習がある。大黒天の造立の目的はほかに福神信仰に基づく造立もある。また、社寺の境内に置かれるなどして寺社が造立に関与している場合も多い。 像高は、78センチメートル、台座まで含めると1メートル10センチメートルである。 台座の銘文に、 天保四癸巳年二月吉祥日 當庵四世徳壽院〇〇 とある。この銘により天保4年(1833)に建立されたことがわかるが、宝光院における由来は明らかでない。
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道祖神「なんじゃもんじゃさん」一対
重要文化財
安龍寺の境内に一対の男女像の石像が祀られている。夫婦像といわれ、男性像は銚子と杯を持っている通称「な(あ)んじゃもんじゃさん」といい、女性像は右手を上げ、左手は印らしきものを結んでおり通称「銭(ぜ)んがないさん」という。夫が「酒買うてこい」と言うと、妻は左手の指で円をつくり「「銭んがない」と突っぱねていると地元では伝えられている。男性像は像高71センチメートル、女性像は像高72センチメートルで、制作年代は江戸時代と推定される。
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石造四天王像立像四躯、石造宝篋印塔一基・石塔残欠一個
重要文化財
佐賀市大和町大字池上に所在する四天社は通称「しってんさん」と呼ばれている。「しってん」は四天王(してんのう)のことで、インドの古代神話に登場する神で、帝釈天の住む須弥山(しゅみせん)の四面の中腹に住し、仏法と仏法に帰依する人びとを守護するといわれている。東方に持国天(じこくてん)、西方に広目天(こうもくてん)、南方に増長天(ぞうちょうてん)、北方に多聞天(たもんてん)を配する。 池上の四天社は古墳を須弥山として高さ1メートルほどの石造の四天王を四隅に配して、中央に層塔を安置し大日如来とする。現在は破損、風化しているが、しっかりとした丸彫リ像で作者の技量の高さを伺わせる。数個の石材を組み合わせており寄木造りを思わせ、作者は木仏師である事を伺わせる。県内の石仏でこのような作例はなく、近世の肥前石工とはその彫りを異にし、平安時代の作と考えられる。 石造宝篋印塔は造りも丁寧で、形態から室町時代初頭の作と考えられる。
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不動明王立像 一躯
重要文化財
永正年間(1504~1520)のころ龍造寺胤家が居館としていたのを、子の斎亮に譲った。斎亮は仏門に帰依(きえ)し、ここを寺として清心院と称した。江戸時代、佐賀城下の東北隅にあるので鬼門守護の道場として佐賀城の出城の役目をしていた。 清心院は、古義真言宗の寺院で、本尊は不動明王である。仏教では不動明王を大日如来の使者としてとり入れた。如来の命を受けて忿怒の相を表し、密教の修行者を守護して諸種の障害を除き,すべての災魔を滅ぼして修行を成就させる尊像とした。形像は,右手に剣,左手に羂索を持ち,青黒色の全身に火焰を負う姿が一般的である。 この仏像は、大宰少弐がもたらしたものであるとか、胤家が筑前にいた時に当地に移したものであるなどと伝えられている。秘仏であるために、平素拝観することができない。 寺伝によれば行基の作とされているが、その彫像様式からみて、南北朝時代の作ではないかと推定される。 虫喰が諸処にみられ、相当にいたんでいるが、全体的にはよく彫像当初の形態を保存していて、数少ない中世の仏像としてその価値が高い。
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鬼丸聖堂の聖像三体と天縦殿の額
重要文化財
佐賀藩2代藩主鍋島光茂は、元禄4年(1691)に城内二の丸に孔子ほか四君子の像を祀った聖堂を設けた。ついで藩主となった鍋島綱茂は、元禄10年(1697)から数年にわたって、城外の鬼丸西部一帯に広大な園地を開設し、ここに二の丸聖堂を移して鬼丸聖堂と称した。鬼丸聖堂は、鍋島直正の時代、弘化3年(1846)に弘道館に移され、その跡をとどめていないが、天縦殿と書かれた聖堂の額や3躯の聖像が今もなお伝存している。聖像は孔子と顔子の2躯と名称不明の1躯である。 銅造孔子坐像は、鋳銅製の極彩色像であって、椅子に腰をおろした倚坐像である。聖像と椅子とは同鋳であって、椅子まで含めての全高は、62センチメートルである。 頭には冠をいただき、両手は前方に水平にあげて軽く握り、裳は長く垂れて木履をはいた両足を包んでいる。冠は褐色で縁どり、青い紺青を地色に用い、上衣は濃緑、裳は黄色で、襟、袖口、裾などには青色が用いられている。 椅子は黒色を主体とし、手や顔などには黄色が用いられていて、複雑な配色となっている。冠、上衣、裳などには、模様が描かれていて、冠には、竜、上衣には、日、月、山、きじ、その他種々なものが配されている。 頬はくぼみ、目と耳は大きく、眉は半月で、髭が長く垂れている面貌は、孔子晩年の円熟した相を表現しているものであろう。 木造顔子立像は、寄木造の素地の上に粉を厚く塗り、その上に彩色を施した彩色像であって、首は挿し込みとなっている。ほぼ完構を保っているが、台座と足先が欠失し、髭には後世の着色がみられる。 像高60センチメートルで、頭部は結髪を布で覆い、両手は胸前で軽く組み、両足はわずかに開いて直立した姿である。袖口、襟、袖などは緑で、上衣は栗色を主とし、他に白、黄、青なども配色されていて、金線の文様が描かれている。 上衣の袖は長く垂れ、裳の裾は両足を覆い、腹前には垂れが長く垂れている。閉口し、伏目の面貌は柔和であって、衣文の彫りは深く流麗である。 木造の不明立像は、顔子立像とその素材、彫法、像高など、ほとんど相類似していて、対として彫造された聖像であることを知ることができる。像高60センチメートル、台座と足先が欠失している。 袖口、襟、裾は濃青色で、上衣の地は褐色、他に白、赤、栗、緑などが配され、金線の文様が描かれている。わずかに閉口して眉下り、顔子像が清的であるのに対して、やや動きがみられ、腹部には帯の端が長く垂れている。 天縦殿の額は、縦80.0センチメートル、横52.5センチメートルの木額・木縁で、黒漆の面に金泥で「天縦殿」と書かれている。額の左下に「藤原」「宗茂」と彫った木印が貼られ、額裏に享保十年(1725)と彫られている。 鬼丸聖堂の3聖像と天縦殿の額は、江戸時代における藩学又は郷学など学問の精神を今に伝える貴重な歴史的資料である。 (写真:鍋島報效会提供)
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木彫毘沙門天立像
重要文化財
本行寺は、日蓮宗身延山(みのぶさん)派に属する寺院で、毘沙門天立像は、本堂の中に併設した毘沙門堂(殿)に安置してある。 毘沙門天は、天部に属し、護法神の一つで、常に道を守って説法を聞くことから多聞天とも呼ばれる。顔の表情は、仏法を守護するきびしさと、人問の煩悩(ぼんのう)を叱咤(しった)するような、へいげいした力強さがあり、その内面には万民の幸福を守る慈悲心が宿されている。 本像は、頭部から脚部まで110センチメートル、仏頭22センチメートル、肩から腰部より脚部まで65センチメートル、台座から槍上まで147センチメートルである。 けやき材を素材とした寄木造りで、彫こんは、自由奔放にして稚拙さがあり、ほとんど損傷がなく原形が保たれている。玉眼はなく、木彫りのままであるが、作調、様式からみて平安時代の作かと推定される。両手の槍、剣と台座は部分的に後作補修のあとがあるが、佐賀市内の寺院堂宇にある天部尊像の中では、他に類のない貴重な木彫であり、本県内の仏像彫刻の中でも特長のある作調である。
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石造六地蔵六観音像 一基
重要文化財
坪の上天満宮の石造六地蔵六観音像は、現地表面からの総高2メートル、屋根は緩やかな勾配をもった波形で、中台には蓮華文が刻出されていて、全体の構造は均整がよくとれていて安定感があり、尊像は優美であって工芸品としてもすぐれている。また破損は中台、尊像などの一部にわずかばかり認められるのみで、ほぼ完構に近く保存は良好である。 この石像の特色は、尊像が12体彫られていることで、下段に六道の衆生を救済するという6体の地蔵像が蓮座上に配され、上段に更に6体の観音像が蓮台上に刻まれている。この上段の観音像は、下段の地蔵尊に比べると小像であるばかりでなく、6体とも合掌印を結ぶ垂髪の同じ像容に彫られていて、個性に乏しく簡略化された表現となっている。 竿石には、 伏冀現世安穏後生善処 欽奉彫刻観音地蔵二六尊像 永正十五戌寅………十日 と刻まれていて、この石像が県内の六地蔵としては、永正15年(1518)という比較的に古い時期に属するものであることが判明する。 室町時代には地蔵信仰が最も盛んであったことは遺物の上から知ることができ、この石像は地蔵信仰とともに観音信仰も盛んであったことを明らかにする資料の一つとして特に注目に値いする。
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石造六地蔵 二基
重要文化財
東善寺の入口近くに参道をはさんで建てられている2基の石造六地蔵である。 宝珠、笠、尊像、中台、竿の5部分からなっているが、天正8年(1580)のものは宝珠を欠失する。総高は天正8年像2.14メートル、天正16年(1588)像2.25メートルである。 ともに笠は平面が六角形で、波形の勾配、尊像は立像で蓮台上に立つが、天正8年銘の蓮台は、間隔をおいた重弧文となっている。中台は、大花と小花とを交互に配した単弁の蓮華文で、浅鉢形の曲線を呈し、笠の曲線と微妙な調和を保っている。 竿の部分にそれぞれ次のように造立銘が陰刻されている。 ・奉彫刻地蔵〇菩薩六体 良因妙顔禅定尼 天正八庚辰十月吉日〇〇〇〇〇妻 ・伊藤孫三良 改名花盛淨映禅定門 天正十六年戊子六月十八日 天正8年と天正16年に造立されているこの2基の石造六地蔵は、六地蔵造立が隆盛であった天正年間の所産で、構造的に見て最も整っており、また他に余り例を見ない豪壮な作であるとともに彫像もすぐれていて、六地蔵の代表的遺品としてその価値が高い。
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本庄神社石燈籠 一対
重要文化財
本庄神社の広庭、拝殿前の左右に建てられている1対の石造の燈籠であって、総高2.58センチメートルである。宝珠、笠、火袋、中台、竿、基礎の6部分からなる標準形の石燈籠である。 宝珠の部分は、宝珠と請花からなり、請花は複弁の蓮華で、宝珠の先端には小形の球形が取りつけられているのが異色である。屋根は緩やかなふくらみを持つ「起り」の形式で、軒先は6面となり、蕨手が取りつけられている。 火袋は、1層で断面は6角、方形の小形の通風窓が設けられている。中台は、単層の蓮台で、大花と小花の単弁蓮華文が刻まれている。 竿は円柱で、上下にそれぞれ1本、中央に2本の節が設けられている。基礎は反花と6角方柱の2層からなり、反花は複弁で、間に小花がいれられている。 竿石に次のように造立銘が陰刻されている。 願患悉除願望吉祥 謹奉寄附石燈籠壱基 〇〇〇〇鍋島加賀守藤原朝臣直茂 願主鍋島和泉守藤原朝臣忠茂 本荘淀姫大明神御賓前〇〇〇所願 干時元和四年戊午仲春吉〇良月 佐賀藩祖鍋島直茂や初代勝茂が鳥居などを神社に寄進している遺例はいくつか知られていて、藩政初期における大名の神社に対する政策や神社信仰の一面をしのばせているが、この石燈籠もまたその一例として歴史的価値が高い。特に鹿島支藩初代藩主である鍋島忠茂が願主となり、藩祖の直茂と名を連ねている点にも興味深い。 忠茂が鹿島支藩主となったのが慶長15年(1610)で、慶長19年の大坂陣に際して東上しているが既に病患に苦しみ、元和7年(1621)には下総の矢作に入り、寛永元年(1624)にはこの地で没している。この間の元和4年(1618)に奉納されているこの石燈籠には、深い意味が秘められているようにも考えられる。 この石燈籠は、本県内においてはもっとも古い造立銘を有するものであり、しかも簡素にして豪壮、よく完構を保っていて、石造り工芸品としての価値が高い。
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石造六地蔵 一基
重要文化財
柱状の竿石の上に中台をのせ、その上に6体の地蔵菩薩像を彫った龕(がん)部を安置し、さらに宝珠(ほうじゅ)のついた笠石をのせた形式の六地蔵と通称されているものが、県内には濃密に分布している。その造立年代は室町時代後期を中心にしていて、中世末期における地蔵信仰の隆盛さをしのばせている。 荻野の六地蔵は現地表面からの総高145.5センチメートル、竿石は四角柱状の二段継ぎで、この地方通例の下張り上窄みの梯形(ていけい)でなく、上下ともほぼ同大の角柱である。中台は六角平盤で、上面には各辺に応じて皿形の窪みを彫り込んである。塔身は六躰の地蔵を仏寵式に彫出した、この地方で数少ない造形である。笠は径56センチメートルの円形で、屋根の上面には中央の宝珠の部分から放射形に剣先文様の蓮華文が浮彫りされている。竿石に次のような銘が2列に線刻されている。 藤原朝臣㊨氏國宗〇 〇〇文明十六年甲辰二月㊐ 銘により、室町時代の文明16年(1484)の造立であることが知られ、県内で現在判明している最古の造立銘を有するものとして注目される。この六地蔵は笠石が破損しているが、竿石の上下のひろがりが少なく、六角形の葉状文のある中台、六角形に区切られた龕部、蓮華文のある笠石など幾つかの特色を有し、六地蔵の初現的な構造を知る貴重な資料である。