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[指定文化財][佐賀市][川副町]は5件登録されています。
指定文化財 佐賀市 川副町
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燈堂
史跡
戦国時代の勇将、龍造寺隆信(1529〜1584年)は、豊後の大友氏に内通した家臣に追われ、筑後柳川に近い一木村に身をひそめていた。天文22年(1553年)ひそかに水ケ江城奪還を企てていた隆信は、鹿江兼明らの船に乗り、犬井道地先の燈堂に上陸した。当時この辺一体は葦の生い茂った海岸で、航路の安全を祈る灯(燈=あかし)をつける堂があったことからアカシドウと呼ばれている。 上陸後、破竹の勢いで周辺の諸将を降した隆信は、遂に五国(肥前・筑前・筑後と肥後・豊前の一部)二島(壱岐・対馬)の大守となり、九州では薩摩の島津、豊後の大友と並ぶ戦国大名となった。 隆信の座像は、当初昭和28年4月南川副町制施行を記念して、地元の有志によって建立されたが、その後損傷が激しくなったため、平成10年9月に改築されたものである。
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此荷大明神
史跡
西川副小学校から南西方向に約500メートル、田畑が広がるなかに、ひっそりと立つ小さな祠がある。「此荷大明神(このにだいみょうじん)」と刻まれたこの祠には、戦国時代の勇将、龍造寺隆信にまつわる次のような言い伝えがある。 筑後一木村(今の福岡県大川市一木)に身をおいていた隆信が天文22年(1553年)再起を期して、海路から犬井道の燈堂に上陸したあと鹿江の威徳寺に入り、軍備を整えたとき、この地に軍荷を置いたというものである。 かつては、この祠を囲んで楠や松の大木と雑木が生い茂った森があり、地元の人から「コーノイさん」と呼ばれ親しまれていた。 昭和55年圃場整備事業で樹木は全部切り倒され、今では一基の祠を残すだけとなった。
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鳥類供養塔
重要有形民俗文化財
米納津集落の北東部に御屋敷内と呼ばれ、四方を堀で囲まれ、竹林が生い茂った所があった。この辺り一帯は、多くの鳥類が棲んでいたので狩場となっていた。 鳥類供養塔は、狩猟の犠牲となった鳥類の霊を慰めようと享保14年(1729)2月28日に、鳥類殺生の業生転滅をはかって建立された。業性転滅とは、鳥類はそのままでは回向できないので、鳥類の業性を転滅した後に回向をする意味だという。 八角形の基礎石の上に建てられた石幢形の塔で塔身は八角柱であるが、幅が長短あって方角柱の面取りを強くした形態である。笠の平面形は六角形で、勾配は波形、上に宝珠がついている。 碑文は、「鶴、白鳥、鴈、大小鳥類壱万二千六百余之霊魂、業生転滅」とあり、大乗妙典を読誦すること百五十部、過去、現在、未来の三千佛の御名を唱えること3日間、経文を一石に一字づつ書写して供養するという意味の一文が刻まれている。 昭和63年1月31日に圃場整備事業のため現在地に移設された。
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海童神社奉納浮立
重要無形民俗文化財
海童神社の秋季例祭に豊作豊漁を感謝して奉納される伝統的な浮立で、佐賀平野に広く伝承している天衝舞浮立である。起源については、寺井津の住人、玄蕃亮常利が中断していた浮立大神楽を再興したと伝えられている。 特徴と見所は、奉行、笛、鉦、大太鼓、和讃(モリャーシ)その他で構成されている。神輿巡行のときはお供として道囃子を奏しながら練り歩く。神社や御旅所の境内では、本ばやし、つくい浮立が奉納される。天衝舞人は浮立の主役で、神前で神を拝み、囃子に合わせて舞い、太鼓を打つ。 つくい浮立は娯楽性の高いもので、なかでも「すもとい(相撲取り)浮立」といって、相撲甚句に合わせ、浮立の打子が「ドスコイドスコイ」と掛け声と踊りが名物である。
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松枝神社奉納浮立
重要無形民俗文化財
筑後川河口に筑後川とその支流早津江川に挟まれた大三角州があり、北半は福岡県大川市大野島、南半が大詫間である。大詫間の松枝神社の秋の例祭に奉納される天衝舞浮立である。発祥の時期は明らかでないが、神社創設の元和9年(1623)ごろより、水に苦労した干拓地で、八大龍王に浮立を奉納して雨を祈願したのではないだろうか。 特徴と見所は、例祭当日は早朝4時ごろ、高張り提灯を先頭に神社境内に入り、1時間ほど浮立が行われる。浮立は18歳から26歳までの青年男子が中心で、奉行・笛・小太鼓・鉦・大太鼓で構成されている。道行きでは、道囃子をはやし、神社では本浮立・つくり浮立が奉納される。