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[指定文化財][佐賀市][久保泉校区]は3件登録されています。
指定文化財 佐賀市 久保泉校区
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木彫彩色婦人坐像(観世音胎内仏一躯)
重要有形民俗文化財
川久保(佐賀市久保泉町)の邑主であった神代直長の娘、成姫は、本藩2代藩主鍋島光茂の養女となり、白石(しらいし)(三養基郡みやき町)の邑主鍋島直弘の嗣子鍋島直氏(又は直紹)に嫁したが、難産のため18歳(延宝4年〈1676〉8月10日)で死亡した。このため、直長は成姫のめい福を祈って慈音院を建立し、成姫の坐像を刻んで本尊観世音像の胎内に納めた。しかし、このことはいつしか忘れられていたが、明治年間に寺の裏山からの火災で、本尊を避難させたとき本尊の胎内に物音がしたので調べてみたら木像が安置されていた。これが成姫の像で、婦人坐像に彫像されており、現在は本尊とともに安産の仏として信仰されている。 製作の年代は、延宝4年(1676)以後1~2年問と推定される。像高は21センチメートルで、小さな人物像にすぎないが、県内には婦人像はほとんど他にその例がなく、江戸時代前期の若い武家婦人の風俗をそのまま伝えているものとして価値がある。
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石造十一面観世音菩薩立像 一躯
重要文化財
勝宿(かしゅく)神社と小川をへだてた山腹の小堂に石造十一面観世音菩薩立像が安置されていて、后良(きさきら)観音と呼ばれ、今日でも地域の人々の厚い信仰を集めている。 像高118センチメートルの石造で、宝冠に化仏を頂く十一面観世音菩薩の立像である。右手は掌を前にして垂下し、左手は屈して胸前で蓮華を執るが、両手・両足ともに体部に密着した浮彫りで、窮屈な表現となっている。顔面は大きくて下半身が寸詰まりとなり、しかも下半身の表現は簡略化されている。衣文彫りは浅く、正面観のみの表現であって、側面及び背面は素材のままの荒削りとなり、中世石像彫刻の様式をよくとどめている。体側両面に、次のような造立銘が陰刻されている。 左体側「河窪村中泉〇〇天正十三暦三月廿如意林日」 右体側「奉彫刻妙観音尊像一基〇〇〇」 この造立銘によって、天正13年(1585)に彫造された中世末期の石像であることが知られる。 柱上の石材を用いて彫顕した一種の板彫り像であって、県内の石像彫刻が、線彫→浮彫→半肉彫→板彫、丸彫→肉彫と進化していく石像彫刻の進化過程を知る上から、県内では数少ない遺例の一つであり、板彫系統の初現的な石像の一例として注目すべき価値を有している。
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勝宿神社本殿 一棟
重要文化財
勝宿(かしゅく)神社は佐賀市久保泉町川久保の北端で山に囲まれた景勝の地にあって、神代勝利を祀り、江戸末期に長崎から棟梁を招いて建立されたと伝えられている。 社殿は本殿と拝殿とから成り南面し、拝殿入母屋造り瓦葺で近世の新しい建築であって、造りも簡素である。本殿は、一間社流造りで向拝に江戸風の軒唐破風がつけられている。 基壇は、高さ四尺(1.21メートル)、花崗岩の白然石乱積みで上端に葛(かずら)石を配してある。屋根は、銅板葺で棟、鬼板、鳥衾(とりふすま)共鋼板で加工され、鬼板には三つ巴の紋が小さく型打ちされている。軒は二軒繁棰、地垂木、飛燕垂木共に角材、軒唐破風は疎棰で屋根の反りに合わせて曲の棰が使われている。本殿の四本の柱は円柱、向拝の柱は角柱で唐戸面が取ってある。妻破風の上下は透し彫りの木彫で飾られ、拝懸魚(おがみげぎょ)は室町風の藁(かぶら)懸魚に三つ巴の紋を浮き出し、鰭(ひれ)及び降(くだり)栱懸魚は若葉模様の木彫、妻壁は蟇股、斗栱(ときょう)、虹梁や竜頭(たつがしら)の彫刻の真束で組み立てられていて、それらの空間は波や雲型の彫刻で充たされ、柱頭には植物の木鼻なども添えられている。 また、正面唐破風の壁も、斗栱、二重虹梁、獅子の彫刻の束や、二重虹梁の空間の波に戯れる竜の彫刻などで埋められている。向拝の柱の正面、側面には前肢を伸ばして、口を開いた獅子の木鼻がついていて、両妻と正面の上部の壁は豪華に飾られている。本殿正面には、両開きの格子戸、右側面には壁の中央より左に偏って両開きの浅唐戸が吊ってあって、この扉の上面の鏡板には木彫の三つ巴紋が浮かしてある。扉を除いた壁面及び左側面、背面の壁は、すべて中の広い横板張りである。本殿の四周には縁を廻らし、組勾欄を設けてあるが、正面階段と、右側面の浅唐戸前に擬宝珠柱が立っている。縁は三手先の斗栱によって支えられ、縁の下の建物周囲には亀腹が施されている。 用材は欅(けやき)を主体に桧(ひのき)も一部に使われていて彫刻材には楠を使用し、木部見え掛りはすべて白木の化粧仕上げである。屋根は現在銅板葺であるが妻飾りなどの華美さに比して鬼板、鳥衾(とりぶすま)、棟などの手法が簡単すぎて、ややふつりあいである。 やはり、創建当時の屋根は古来の神殿造りの様式を踏襲して、桧皮葺(ひわだぶき)であったものを後世に補修した折、銅板葺に葺き替えられたものと思われる。 この本殿は一間社造りの小規模の建築であるが、その木彫技法の巧緻さはいうまでもなく広い重量感のある反り屋根と、斗栱に支えられた廻り縁とのすばらしい調和など、山の緑を背にしたその姿は美しく江戸後期の数少ない遺構として貴重な建物である。