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[指定文化財][佐賀市][金立校区]は7件登録されています。
指定文化財 佐賀市 金立校区
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浄円寺のイチョウ 一株
天然記念物
イチョウは中国原産の落葉高木で顕花植物の中で最も古い時代の木で、生きる化石といわれ、花粉から精子を出すので有名な木である。浄円寺のイチョウは境内にあって推定樹齢約370年、目通り4.40メートル、樹高30メートル、枝張り20メートル、根本から15メートルの高さまで幹が垂直にのびている。今日なお樹勢も旺盛で佐賀市内における、巨木として価値が高い。なお、イチョウは昭和54年(1979)4月1日に佐賀市の木として制定された。
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大小野の石楠花 一株
天然記念物
大小野(おおごの)は久保泉町から神埼市脊振町に至る途中の山麓地帯に位置する。 民家の庭先を流れる細い谷川の側に植栽されている石楠花(しゃくなげ)は、推定樹齢400年、根回り3.5メートル、樹高2.8メートル、枝張り9.1メートルで根本のところから多くの枝が分岐し、枝葉のすそは地面をはうように広がり、清流を覆った形で四百年の樹齢を保ち続けた最適な場所にあり、佐賀市近郊では珍しく大きく成長した名木のひとつである。4月の開花時期には樹勢にふさわしい淡紅色の花を一面に咲かせ、植物上も賞美に値するものである。
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乱斗山古墳群
史跡
金立山麓の金立川流域に、古墳時代の6世紀後半~7世紀前半に築造された黒土原古墳群、金立社中宮付近古墳及び乱斗山古墳群がある。これらの群集墳のほとんどは横穴式石室を内部主体とする小円墳である。他地域にも、これに類するものが存在していたが、一部を残してほとんどが消滅している。 このような状況のなか、殊に乱斗山古墳群は、壊されずにその特徴を留め、良好な状態で遺存している。現在確認できる円墳は4基である。 その特徴は、 ・巨大な石材を使用して石室を構成した巨石墳。 ・石室の巨大さに比べて封土は小さく群集墳をなす。 ・石室は、単室もののほか奥室と前室の2室を有する副室墳。 ・内部主体が整備され、外郭の封土より内部の石室構成に重点が置かれている。 などである。
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高麗人の墓碑・逆修碑
史跡
『葉隠聞書』第三に「有田皿山は、直茂公高麗国より御帰朝の時(慶長3年-1598)宝になるべくと候て、焼物上手頭六、七人召し連れられ候。金立山に召置かれ焼物仕上り候。其の後、伊万里の内、藤河内山に罷り移り焼物仕上り候、それより日本人見習い伊万里有田山方々に罷り成り候由」とある。 この聞書の金立山は、現在の佐賀市金立町の大門で、この内容を裏付ける史跡として、2基の石碑が建立されている。 高麗帰化人の墓碑で、「逆修、朝鮮国工政大王之孫金公之」、右側に「道清禅定門寛永六年已巳八月日」左側に「妻女同国金氏妙清禅定尼八月日」とあり、他の一基には「暁月禅定門寛永五年戊辰九月初五日」とある。 この墓碑は、16世紀末李氏朝鮮国の陶工団によって、陶磁が焼かれていたことをうかがわせていると共に肥前磁器の源流を究明する上から貴重な墓碑である。
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金立神社上宮
史跡
金立神社は、平安時代の貞観2年(860)に従五位下を授けられたことが正史に見える由緒の古い金立神を奉祀する神社であって、鎌倉時代には社領10町歩を保有し、江戸時代には雨乞いに霊験のある神として、佐賀藩主をはじめ広く人びとに崇敬されていた神社である。 祭神は、保食神(うけもちのかみ)・罔象売女命(みずほめのみこと)・秦の徐福の3神である。 「湧出御宝石」と称される巨石や巨木などの自然物を神の依代(よりしろ)として崇敬した神社形態が整う以前の古い祭祀の名残りをとどめる県内では例の少ない信仰史上極めて価値の高い祭祀遺跡である。 また、一間社流造りの神殿や入母屋造りの拝殿は、その造立年代は新しいにしても県内では類例のない大規模の石殿として、石材工芸史上注目すべき価値を有している。
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葉隠発祥の地
史跡
現在、山林及び畑地等となっていて、葉隠の口述者山本常朝が隠棲(いんせい)した朝陽軒(ちょうようけん)(のち宗寿庵(そうじゅあん))等の遺構は残っていない。 ただその跡に「大乗妙典一千部」石塔があり、それより東方100メートルほどの所に「常朝先生垂訓碑」が建てられている。 元禄13年(1700)山本常朝は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂死去のため落髪出家してこの朝陽軒(のち宗寿庵)に隠棲した。10年を経て同藩士田代陣基(つらもと)が自已修養のため、ここを訪れ教えを請い、のちの大小隈(だいしょうくま)での口述と合せて7年にわたり、その教訓を中心に筆録したのが葉隠11巻である。 千部経塔は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂の夫人が亡夫追善のために法華経一千部を自読した碑で「大乗妙典一千部、元禄十四年辛巳年始繙之而至正徳二壬辰年五月十六日圓満修」と刻まれている。 「常朝先生垂訓碑」は、昭和10年(1935)10月に建設されたもので、碑面の文字は武富時敏の書で、碑文は西村謙三の撰を中島雅明が書いている。また、碑の背面には、「憂世から何里あろうか山桜」「白雲や只今花に尋ね合ひ」の句が記されている。
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絹本淡彩金立神社縁起図 一幅
重要文化財
金立神社縁起図は絹布3枚継ぎで、縦181センチメートル、横107センチメートル、軸装である。画面は上・中・下の3段に分けられ上段は金立神社上宮の景観、中段は金立神社下宮、下段は徐福上陸の場と3部から構成されている。大和絵に近い筆法であって細密に描かれ、多くの人物を配して動的に画面を展開させている。 金立神社の祭神にちなむ徐福伝説を描き、金立神社上宮の景観と信仰関係の遺跡を詳細に描写している。箱書によれば正保5年(1648)に鍋島茂笵がこの縁起図の箱を新調しているが、絵の構図や色彩等から見て、また現在金立神社下宮に移されている「蓬來島本地弁才天」の石造から考えて、この図は箱が新調された正保年間ごろの作成になるものと推定される。 一部に汚損の箇所があり、やや褐色がかっているが、神社や寺院などの縁起図としては県内所在のものとしては最もすぐれたもののひとつであり、近世絵画としてもその価値は高く評価されるものである。また、古い由緒を持った金立神社の信仰を研究する歴史的資料としての価値も高い。