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[指定文化財][佐賀市][本庄校区]は9件登録されています。
指定文化財 佐賀市 本庄校区
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高伝寺の梅 一株
天然記念物
高伝寺境内の墓所のほぼ中央にある梅は、高さ2.04メートル、根回り5.7メートル、目通り幹回り1.5メートルで根本から3枝幹に分かれ外方にひろがり出ている。樹齢300有余年といわれ、老梅としての風格を保ち、市内に存在する代表的な巨木である。この梅は、佐賀藩祖鍋島直茂が隠棲した際、佐賀郡春日村(現在の佐賀市大和町南東部)玉林寺の金峰和尚が贈った梅で、明治初年に高伝寺に移されたと伝えられている。
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高伝寺墓所
史跡
高伝寺は、天文21年(1552)に開山され、その後、鍋島家の菩提寺となった。 山門及び本堂は明治34年(1901)に改築された。山門に掲げられた扁額「恵日山」の彫刻の書は即非禅師の筆、また、本堂入口直上の彫刻の扁額「高傳禅寺」は、黄檗の僧、独立禅師の筆である。 高伝寺の境内の西側に位置する約45アールの墓地は龍造寺家及び佐賀藩主鍋島家の歴代の墓で塔や多くの石灯籠などが整然と並んでいる。墓域は明るくて広く、独特の雰囲気と調和の美を現わしていて、一種の墓地公園の観を呈している。 墓所は明治4年(1871)に、鍋島直大(なおひろ)が各地に散在していた前領主龍造寺家の墓及び鍋島家の墓をこの墓地に改葬した。東側一帯に龍造寺家の墓塔10基、西側一帯に鍋島家の墓塔16基が並んでいる。 近世の墓塔の変遷や佐賀の近世史を研究する上からも資料的価値が高い。
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鍋島直茂誕生地
史跡
佐賀藩藩祖鍋島直茂(なおしげ)は、天文7年(1538)に清房(きよふさ)の二男として、本庄館で生まれた。母は、龍造寺家純(隆信の祖父)の娘。現在、胞衣塚(えなつか)だけが残っている。初名は彦法師丸、信安、信昌又は信生、天正17年(1589)従五位下に叙し、加賀守となり、直茂と改めた。 戦国武将・龍造寺隆信のもとで武功を重ねた。元亀元年(1570)、豊後の大友義鎮(宗麟)の佐賀攻略に際し、今山(佐賀市大和町)に陣した大友勢を直茂の果敢な働きで、敗退させた。天正12年(1584)、龍造寺隆信が島原の戦いで戦死すると、龍造寺氏の領国の取締りに当たった。慶長12年(1607)、龍造寺政家・高房の死後、多布施に隠居し、家督を嫡子勝茂(佐賀藩初代藩主)に譲った。元和4年(1618)に81歳で没す。法名高伝寺殿日峯宗智大居士。 (写真:鍋島報效会提供)
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木造了意和尚像
重要文化財
絶学了意和尚(了爲ともいう)は、小城郡古湯村(現佐賀市富士町)で山伏の子として出生。出家して川久保松陰寺に入り、元禄9年(1696)藩主鍋島綱茂の命で高伝寺19世住持となる。 2代藩主鍋島光茂が没し、2か月後の法要が済むと、黒土原の山本常朝の山屋敷朝陽軒に入り、常朝と同居した。朝陽軒はのちに高伝寺末寺として宗寿庵となり了意和尚が開山者となる。 宝永6年(1709)加賀国大乗寺住持となり、6年後に帰国した。享保11年(1726)に没す。山本常朝は元禄9年(1696)5月19日高伝寺の了意和尚より受戒。この了意和尚の木造の像が静元寺(開基、鍋島生三)に安置されている。 了意和尚は、葉隠の口述者山本常朝との交流が深く、湛然和尚とあわせて葉隠の成立に大きな影響を与えたことが考えられ歴史上重要な位置を占める人物である。そしてこの像は、了意和尚が死去した翌年享保12年(1727)に造られており、製作の時代、作者が確認できる資料として貴重で、造像技法も本格的であり歴史資料として、彫像として高く評価できる。
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木造鍋島忠直坐像 一躯
重要文化財
鍋島家の菩提寺である高伝寺の本堂に安置されている鍋島忠直像は、冠まで含めての像高50センチメートルの衣冠姿の坐像で、玉眼嵌入、首及び両手首差込み、彩色が施された木像である。腰に刀を差し、左手は膝の上に軽くのばし、右手はわずかばかり指を屈して笏を操る態をなすが、笏は現存していない。 両眼を開き、口を結んだ顔容は静的で、左右へ大きくひるがえる両袖口は、沓をはいた両足を軽く組んだ安坐姿と相まって、安定感を与えている。この像は、袖の部分にいくつかの襞を表わしたのみの極めて簡潔に表現された肖像彫刻である。 鍋島忠直は、佐賀2代藩主光茂の父で、寛永12年(1635)わずか23才で早世した。側近に仕えていた江副金兵衛は、忠直の死後姿をくらまし、高野山にこもって一心に主君忠直の像を彫った。忠直の一周忌が催されているときこの像を持ち帰って、光茂に奉り、追腹を切った。 この江副金兵衛の殉死に直面した藩主光茂は、深く考えるところがあり、ついに寛文元年(1661)に追腹禁止令を領内に発布した。佐賀藩における追腹禁止令は、寛文3年(1663)に幕府が発布した殉死禁止令の先駆をなすものとして注目される。 江副金兵衛作の鍋島忠直像は、単なる肖像としてよりも、わが国における殉死禁止の要因をなすものとして、その歴史的価値が極めて高く評価されるものである。
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大涅槃像 一幅
重要文化財
高伝寺は佐賀藩主鍋島家の菩提寺である。涅槃像は、紙本彩色で縦8間(14.4メートル)、横3間半(6.3メートル)もある巨大な画幅である。涅槃図は釈迦が入滅する場面を絵画化したもので涅槃会の際に寺院の本堂に掲げられる。高伝寺においては、4月19日を中心とした釈迦堂開扉に公開されている。 『葉隠聞書』に、佐賀藩3代藩主鍋島綱茂が、京都在住の経師(表具師)若井利左衛門の協力を得て、京都東福寺にある兆殿司筆のものを摸写させたものと記述されている。作者は不明である。箱の蓋の裏には「宝永三年(1706)十月二十一日京都室町通松原上ル高ノ辻町経師若井利左衛門利久」と書かれた紙がはられている。おそらく涅槃像が完成した日付であろう。 また、画幅の裏面に「天保十三年(1842)十一月再興」と書かれているものは、修復した日付だと思われる。 この大涅槃像は、市内における代表的なもののひとつとしてその価値が高い。
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御位牌所 一宇 附一、木造阿弥陀如来坐像一躯 二、御位牌二〇二霊分
重要文化財
高伝寺は天文21年(1552)に鍋島清房によって建立され、鍋島家の菩提寺となって歴代藩主に尊崇された。明治初年鍋島家先祖と龍造寺家の墳墓を当寺に集め合祀した。 御位牌所は明治29年(1896)の建立である。本堂の北にあって南面し、土蔵造で腰を海鼠(なまこ)壁とし軒も塗籠めである。内部は北側一面に位牌壇をつくり、中央に阿弥陀如来座像を祀り左右に鍋島家と龍造寺家の位牌を安置する。 外観は唐風な花頭窓と唐戸そしてギリシャ風の柱に支えられ、屋根は破風造りの向拝である。鎌倉時代に移入された唐風様式が時代と共に和風と完全にとけあった独自な折衷模様を取り入れたものである。和唐洋折衷の時代相を現した好建築で明治建築を知る上で貴重なものである。 御位牌所の中央に安置されている阿弥陀如来坐像は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の寄進によるものである。像高1.45メートルの上品上生((じょうぼんじょうしょう)(定印)の印を結ぶ寄木造りの木造で金箔の堂々たるものであってその価値が高い。 御位牌は、鍋島、龍造寺両家の202霊が奉安されている。最大のものは総高1.34メートルの堂々たるものであって、彫物や彩色などが華麗に施されていて、近世における工芸品としてその価値が高い。
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島義勇の旅日記 一巻
重要文化財
慶応4年(1868)2月26日から始まって、同年5月6日に至る109日間の記事である。多忙な間に書いたものだから、なかには単なるメモに過ぎないところもあるが、江戸城明渡しを中軸とする前後の世相と義勇自身の動静を知ることのできる貴重な記録である。 殊に義勇が接触した人物は、明治維新史に現われる主要人物の大部分といってもよい。それが日記に明記されている。特に、個人の遺墨としては書画の類が多いのに義勇の旅日記は異色である。 島義勇は、佐賀藩士で明治維新に功績のあった人だが、明治7年(1874)の佐賀の役に江藤新平とならんで、首領であったことが有名である。 義勇は、文政6年(1823)有師(ありみつ)の長子として、佐賀城下西精に生まれ、弘化元年(1844)家督をついだ。はじめは皇学を学んだが、弘化年代江戸にでて、佐藤一斎の門に入り陽明学を学んだ。郷里に帰ってからは藩命によって国学指南となった。明治2年(1869)7月には蝦夷開拓掛を命ぜられ、同年9月石狩国府に赴任して開庁している。北海道開拓には義勇は非常に力を入れ、今でも追慕する人が多いという。
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本庄神社石燈籠 一対
重要文化財
本庄神社の広庭、拝殿前の左右に建てられている1対の石造の燈籠であって、総高2.58センチメートルである。宝珠、笠、火袋、中台、竿、基礎の6部分からなる標準形の石燈籠である。 宝珠の部分は、宝珠と請花からなり、請花は複弁の蓮華で、宝珠の先端には小形の球形が取りつけられているのが異色である。屋根は緩やかなふくらみを持つ「起り」の形式で、軒先は6面となり、蕨手が取りつけられている。 火袋は、1層で断面は6角、方形の小形の通風窓が設けられている。中台は、単層の蓮台で、大花と小花の単弁蓮華文が刻まれている。 竿は円柱で、上下にそれぞれ1本、中央に2本の節が設けられている。基礎は反花と6角方柱の2層からなり、反花は複弁で、間に小花がいれられている。 竿石に次のように造立銘が陰刻されている。 願患悉除願望吉祥 謹奉寄附石燈籠壱基 〇〇〇〇鍋島加賀守藤原朝臣直茂 願主鍋島和泉守藤原朝臣忠茂 本荘淀姫大明神御賓前〇〇〇所願 干時元和四年戊午仲春吉〇良月 佐賀藩祖鍋島直茂や初代勝茂が鳥居などを神社に寄進している遺例はいくつか知られていて、藩政初期における大名の神社に対する政策や神社信仰の一面をしのばせているが、この石燈籠もまたその一例として歴史的価値が高い。特に鹿島支藩初代藩主である鍋島忠茂が願主となり、藩祖の直茂と名を連ねている点にも興味深い。 忠茂が鹿島支藩主となったのが慶長15年(1610)で、慶長19年の大坂陣に際して東上しているが既に病患に苦しみ、元和7年(1621)には下総の矢作に入り、寛永元年(1624)にはこの地で没している。この間の元和4年(1618)に奉納されているこの石燈籠には、深い意味が秘められているようにも考えられる。 この石燈籠は、本県内においてはもっとも古い造立銘を有するものであり、しかも簡素にして豪壮、よく完構を保っていて、石造り工芸品としての価値が高い。