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[指定文化財][佐賀市][北川副校区]は4件登録されています。
指定文化財 佐賀市 北川副校区
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日枝神社の楠 一株
天然記念物
楠は、クスノキ科の常緑高木で、暖地に自生し、わが国の植物中最大に成長するものであって、材質は硬くて木目が美しく、独特の香気があって諸種の器材として賞用され、また樟脳を製する原料に用いられている。 『肥前国風土記』の佐嘉郡の条に、「むかし、樟樹一株この村にはゆ。幹枝秀でて高く茎葉繁茂し、朝日の影は杵島郡蒲川山をおおい、暮日の影は養父郡草横山をおおう。日本武尊が巡幸の時、樟が茂り栄えているのを御覧になって、此の国を栄国というべしとおおせられた。そこで栄郡といい、後に改めて佐嘉郡と号した。」とあって佐嘉郡の地名のおこりを伝えている。この風土記の記事によっても、佐賀地方には古くから楠の巨木が栄えていたことを知ることができるとともに、佐賀県の代表的な植物でもあるので、県の木として、また、県の花として親しまれている。 木原1丁目日枝神社の境内に一株の楠の巨木がある。高さ24メートル、幹回り6メートル、枝張り23メートル、樹齢およそ700年といわれ、幹には、ノキシノブやコケが着生し、枝は四方に広がり主幹には諸処にコブ状の隆起がみられ樹盛も旺盛で樹齢の古さを物語っている。
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石造えびす坐像 一躯
重要有形民俗文化財
えびすは、大黒天とともに福神として、近世以来広く信仰されており、二十日えびすなどの民間行事が今も行われていることなど、えびす信仰が庶民生活に深く根ざしていることを物語るものであろう。 石像えびすは、一般にかつて商家が栄えた宿場町などの街路端に奉祠されていて、佐賀市内にも数多く祀られており、半跏像の外に算盤や大福帳を持ったえびすなど種々変化に富んでいる。 この西宮社のえびす像は、えびす(蛭子尊・事代主神)を祭神とする県内に数少ない神社に奉祀されている石像で、製作者は明らかでないが、江戸時代中期の享保16年(1731)という石造えびすとしては県内における古い作例のひとつである。岩座を含めて像高は63センチメートルで、左手を軽くまげて鯛をかかえて、右手も軽く前にまげて竿を執る態をなしている。竿を失しているが、像には欠失や破損部分などが少なくて、よく完構を保っており、他に例を見ない誇張性の少ない表現や均整のとれた福神の相など石造彫刻としても注目すべきものがあり、また、えびす信仰を知る民俗的な遺例としてもその価値が高いものである。
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石造十六羅漢像並びに石造釈迦三尊像 付石造駒形標柱一九躯 付一一基
重要文化財
曹洞宗の岩松軒(がんしょうけん)の境内に、石造十六羅漢像と石造釈迦三尊像が安置されている。十六羅漢は、正法護持のために講じられた修業者の一群で、禅宗では修業の階程として羅漢を崇敬している。この十六羅漢は、釈迦如来の眷属(けんぞく)として表現されることが多いが、釈迦三尊を中心に安置されているこの岩松軒の十六羅漢もまたその一例である。 羅漢像は、すべて結跏、半跏倚坐等の坐像であって、像高50~80センチメートル、切石の台座に坐している。釈迦三尊像の中尊である釈迦如来は、両手を軽く組み蓮台上に結迦趺坐(けっかふざ)する坐像であって像高69センメートル、台座を含めての総高124センチメートルである。釈迦如来の脇侍である文珠及び普賢の両菩薩は、それぞれ獅子と象の上に半跏して座す。頭髪を垂れて宝冠をいただき、文珠は如意、普賢は経巻を執る。獅子や象を含めての像高は、ともに68センチメートルである。 十六羅漢及び釈迦三尊を合わせて19躯からなるこの群像は、その彫像技法などからみて、江戸時代の宝暦年問(1751~1761)前後の作であろうと推定されるが、肥前石造工芸の円熟期の所産として各尊像の個性をよく表現し、しかも群像としての全体調和をよく整えている点は、石造彫刻としてその価値が高い。しかも、いくらかの欠損の箇所はあるが、19躯の群像が一括して保存されている点もまたその価値を高めており、江戸時代における信仰史の上からも注目される文化遺産である。 各尊像の名称や寄進者等を刻した駒形標柱は、11基が残存するのみで、その大半は欠損している。高さ45センチメートル、幅15センチメートル余りの尖頭の方形石柱で、下部は生け込みとなっている。
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長尾山年譜
重要文化財
『長尾山年譜』は、第1巻、第2巻、第3巻の上、第3巻の下、第4巻と区分され、全5冊からなっている。本年譜は「肥前之州、佐嘉県、河副江上、護国長尾山福満寺年譜序」より書きはじめてあり、当寺の開基の由来、各世代住持における出来事、皇室や武将との関係とその信仰状況、伽藍再建の模様、寺領及び寺有地の内容、各種の年間行事仏事法要などについて詳細に年代順にしたためてある。 本年譜には、各巻の巻末奥附に記録年号が奥書してあり、第1巻は「貞享三年九月初七夜染毫」とあるので貞享3年(1686)9月から、したためたものである。したがって、それ以前の開基より鎌倉、室町、桃山の各時代の年譜は、その当時、当寺に所蔵されていた各種旧記や文書、伝承によって記されていた各種旧記や文書、伝承によって記されたものであろう。 第2巻は、貞享3年9月に書かれたものを汚損甚だしかったために「享和元年夏五月住諦観識」として再写してある。したがって、最初に記録されてから150年後享和元年(1801)に再録されたものである。 第3巻の上は「貞享三丙寅十月二十一日書了」とあり、第3巻の下と第4巻は「貞享四年正月十三日書了」とあるので、2年にわたって記録された年譜である。