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[指定文化財][佐賀市][神野校区]は4件登録されています。
指定文化財 佐賀市 神野校区
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掘江神社神像群
重要有形民俗文化財
掘江神社の創建は明らかでないが、日本武尊や神功皇后にまつわる地名説話の社伝がある。 この神像群には、一国一社の国名神号が墨書されている。これは後宇多帝が蒙古との合戦のとき、戦勝祈願のため納められたものと伝えられている。 神像はすべて一本彫製の木造で、千栗・河上・当社の肥前三社の神像を除き、顔面のみを現わして体部は円筒形に彫り放した実に素朴な彫像であって、像高20~25センチメートル、坐像か立像かも判明しない。神像群の総数は、68像が保存されている。すべてに墨書があり、神名や全国六十余州の国名などが記されている。クスノキの枝を丸彫りしてつくったもので、一部には表皮がのこり、大きく干割れているものもある。 肥前国の3体の神像(掘江大明神像、河上大明神像、千栗八幡大菩薩像)は、他の神像より丁寧につくり、永正8年(1511)の製作年と作者元笠の名が記されている。専門的な技巧をこらしたものではないので、作者の元笠は職業的な仏師ではないと推測される。 当時の民間信仰を知る格好の資料で、全国各地の神仏を一箇所でつくったものとしては、貴重なものである。
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浮立玄蕃一流
重要無形民俗文化財
弘治2年(1556)5月、未曾有の旱魃(かんばつ)を憂い掘江大明神に雨乞祈願のため、神職山本玄蕃がこの浮立を舞ったので、「玄蕃一流(げんばいちりゅう)」というようになったと伝えられる。 玄蕃は自分の年齢47歳にちなみ、大もらし20、小もらし27を以って囃方(ばやしかた)とした。また、カサボコ数本はすべて女性の着物と帯を用いたとされる。 『鍋島直正公伝』に、由来久しき歴史を持つ古い雅の歌舞は華奢のものではないと言うので幕末鍋島藩の大窮乏時代非常時倹約令が出た時も他の歌舞、遊戯は一切停止となったが村々の浮立だけは興業を許して取締まるだけにした。 とある。現在では掘江神社の氏子草場、東神野、西神野の3か町が交替で毎年11月3日の祭典(供日(くんち))に奉納する習わしとなっている。 浮立の構成はほぼ次の通りである。(人数は概数) 天衝舞1、大太鼓打ち3、もりゃーし(締太鼓)20、鉦打ち20、笛方6、謡方3~5。この外宰領、世話人、供人が参加する。天衝舞は、日・月と雲龍を画いた直径1メートルくらいの紙張の前立を頭に被り、たっつけ袴をはき、腰にゴザをつけている。 「道行き」で、神社まで向かい、拝殿前で「本囃子」「まくい」が奉納される。天衝舞人は、太鼓の撥(ばち)を両手に大太鼓を打ち謡につれて舞い踊る。 天衝舞浮立ともいい、佐賀平野部を中心に天山山地から有明海沿岸まで広く分布している。
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神野のお茶屋
重要文化財
佐賀藩10代藩主、鍋島直正(閑叟)が弘化3年(1846)に佐賀城下北西のはずれ、多布施川沿いの神野に築いた別荘である。別荘は木造平屋の寄棟造り藁葺1棟と木造平屋建の四方廻屋根、藁葺(わらぶき)1棟の2棟からなり、この2棟を瓦葺の廊下で継いでいる。 寄棟造りは桟瓦葺の庇(ひさし)をつけ、南と西は1間幅の縁がめぐる。主室は4間半に2間半の畳の間で床の間がつき、この主室の北側に4間に1間の畳の副室がついている。 四方廻屋根は、4棟を方形に結合した形で方形に畳の間が廻り、その中央は庭園となっている特殊な構造である。東棟の北隅に千鳥破風本瓦葺の玄関が付いている。 2棟ともに床下は吹放しで、本柱は、すべて1面又は2面が矧(は)ぎ付けとなっている。庭園は、天山を背景にして多布施川の清流をひいて、池、小山を造り、石と樹木を配したもので、別邸の建造物とよく調和し、江戸時代後期の県内では代表的庭園である。 藩主の休息の場としては粗末すぎると感ずるほどの質素なものであるが、構築は藩をあげての総意で樹木や庭石などは、藩士たちが持ち寄ったものである。この別荘は大正12年(1923)に鍋島家から佐賀市に寄附され、神野公園と名を改めて、市民の憩いの場として親しまれている。
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大興寺所蔵大般若経 一括
重要文化財
大興寺所蔵の大般若経は、600巻(欠本10本)で全巻を通じて見れば筆者も数名を超え、筆写の時期にもかなり大幅な年代差があるが、大半は僧慶雲、同玄詮の両人によって天授3年(1377)から同4年にかけて筆写されたものでこれが中核を成している。天授年号は南北朝時代、長慶天皇の代に当たり、南朝号は衰微、九州における南朝方征西将軍府も次第に衰退しつつあった時ではあるが、この写経の奥書にはほとんど南朝年号を記している。 慶雲、玄詮の写経にまじって僧寛海等の写経も若干あるが、寛海筆の永和4、5年(1378、79)筆写の奥書がある。永和は、北朝(将軍方)の年号であって、永和元年は天授元年に当たる。また、同じ慶運筆の写経の奥書にも天授4年1月24日までは、天授年号を用いているが、2日後の1月26日の奥書には、北朝年号を用いて永和4年と記している。 当時の政治的情勢の変化を反映して歴史的興味が深い。室町時代や江戸初期の補巻も2、3あるが、ほとんど南北朝時代の写経であって、時代的にいえば県指定を受けている高木瀬正法寺の写経に次ぐものである。なお、若干の経巻には寄進者の名が記してあるが、それらには、高木瀬村、三溝村等の居住者名が多い。これらは、江戸時代の人々である。写経の大半が南北朝のもので奥書が多く当時の歴史を考察する上で、仏教遺品としてその価値が高い。 残念ながら、平成18年2月13日未明の失火により、一部が焼失し、焼失を免れた経巻は佐賀県立博物館に寄託されている。