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[指定文化財][佐賀市][循誘校区]は10件登録されています。
指定文化財 佐賀市 循誘校区
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牛嶋口跡
史跡
江戸時代の佐賀城下には主に六箇所の入口(牛嶋口、八戸口、今宿町口、唐人町口、多布施町口、天祐寺町口)があり、木戸や番所を設けて通行人を監視していた。そのなかで、城下東に位置する牛嶋口は、牛嶋構口や慶長町口とも呼ばれ、城下の大手口として格式の高い入口のひとつとされていた。 平成28年度の発掘調査で、絵図と合致する橋の土台が発見されたことで、番所の位置も特定でき、「牛嶋口」の位置が明確になった。さらに、橋土台に築かれた石垣は、「輪取り」や「シノギ角」など、城の石垣構築に通じる技術集団の係わりが推測されるもので、対外的に見せることも意識した造りであること、橋桁を支える「枕土台」を検出したことで、絵図や文献資料から、長さ20m、幅6m規模の太鼓橋であったと考えられること、街道は砂と粘土を何層にも突き固めて整地され、人や荷車などが通るため以外に、別の意図があったことが想像される強固な地行が行われていることなど、この場所に対する佐賀藩の強い意識がうかがわれる痕跡が明らかになった。 明治時代以降、主要道路に架かる橋の多くは近代的な橋に架け替えられ、古い時代の痕跡は失われてきた。そのような中、牛嶋口の遺構が残されたのは、場所をかえて新たな橋が架けられ、その後も大きな開発の手が加えられなかったことが要因である。 牛嶋口跡は、佐賀城下の入口を示す遺構が良好な状態で残り、今では失われた橋と街道遺構の構造が一体的に判る貴重な資料として全国的に見ても数少ない例である。さらに佐賀城下を形成するにあたり、歴史的、地理的に重要な場所である。 関連情報(※URLをコピーしてご利用ください) https://www.city.saga.lg.jp/main/50105.html
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牛島神社の楠 一株
天然記念物
牛島天満宮の楠は、小川の傍に生育していて、推定樹齢1000年、根回り24.5メートルで境内にのび、根が地表上に隆起している。幹は小川の上に横たわっていて根本から5メートルのところの幹回りは7メートルである。根本から7メートルのところから大枝が上にのびて幹枝の態を呈しているが、その大枝の大きさは幹回り4.5メートルである。樹高はおよそ15メートル、枝張りは約23メートルであって樹勢はなお旺盛である。 この楠は佐賀市内における代表的な巨木というだけでなく、かつて大風で倒れたのではないかと推定され、横に倒れた幹や隆起し石をはさんで露出した雄大な根部、1枝が幹枝のように立上って成長している状態など生態的にも価値の高い巨木である。
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不動明王立像 一躯
重要文化財
永正年間(1504~1520)のころ龍造寺胤家が居館としていたのを、子の斎亮に譲った。斎亮は仏門に帰依(きえ)し、ここを寺として清心院と称した。江戸時代、佐賀城下の東北隅にあるので鬼門守護の道場として佐賀城の出城の役目をしていた。 清心院は、古義真言宗の寺院で、本尊は不動明王である。仏教では不動明王を大日如来の使者としてとり入れた。如来の命を受けて忿怒の相を表し、密教の修行者を守護して諸種の障害を除き,すべての災魔を滅ぼして修行を成就させる尊像とした。形像は,右手に剣,左手に羂索を持ち,青黒色の全身に火焰を負う姿が一般的である。 この仏像は、大宰少弐がもたらしたものであるとか、胤家が筑前にいた時に当地に移したものであるなどと伝えられている。秘仏であるために、平素拝観することができない。 寺伝によれば行基の作とされているが、その彫像様式からみて、南北朝時代の作ではないかと推定される。 虫喰が諸処にみられ、相当にいたんでいるが、全体的にはよく彫像当初の形態を保存していて、数少ない中世の仏像としてその価値が高い。
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副島種臣の書 二幅
重要文化財
副島種臣は、文政11年(1828)、佐賀藩士の家に生まれ、幕末、明治維新にかけては国事に奔走し、新政府のもとで参議、外務卿、一等侍講、宮中顧問官、枢密院副議長、内務大臣等を歴任した。また、号を蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)といい、詩書にすぐれ、その書は創造力豊かで、極めて格調の高いものとして評価されている。本書は、明治26年 (1893)、種臣65歳の時の揮毫(きごう)である。 これは、願正寺裁松上人の13回忌法会にあたり追悼の詩2首を、用紙を中国に求め、椽大(てんだい)の筆をもって揮毫し贈られたものである。
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上林家文書 一〇五六通
重要文化財
江戸時代の初期以来、宇治において茶の栽培と製茶に従事して、皇室や将軍家を始め、諸大名その他を対象として、手広く茶業を営んだお茶師仲間の中の一団があり、御物仲間と称して特に格式を誇ったといわれる。上林三入(かんばやしさんにゅう)家はその御物仲間8家(のち11家)の中のひとつであって、鍋島勝茂以来、鍋島家とは深い関係のあった家である。この家に伝わった古文書は、佐賀市呉服元町で茶を販売する商店に保存されている。そのほとんどは各方面からよこされた書状であって、勝茂以下鍋島直正に至る鍋島家歴代を始め、熊本の細川三斎・仙台の伊達政宗・沢庵宗彰・千宗易・金森宗和・小堀遠州・柳生宗矩等、多彩な顔ぶれを含み、その数も千数十点に及んでいる。 ただ佐賀におけるだけでなく、日本の茶業史ないし茶道史上、貴重な史料である。
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旧古賀銀行及び旧古賀家 二棟
重要文化財
古賀銀行は、明治18年(1885)1月に佐賀市蓮池町1番地の両替商古賀善平が設立した。明治39年(1906)5月には佐賀市蓮池町76~78番地(現在地)に本店を移転新築した。その後資本金の増資等により、大正8年(1919)末には九州における五大銀行の一つに数えられるまでに成長した。 しかし大正15年(1926)には、大正9年以降の慢性的な不況によって休業に追い込まれ、昭和8年(1933)9月には遂に解散を決議するに至った。 その後、昭和9年6月から昭和29年(1954)まで佐賀商工会議所として、昭和29年から昭和61年(1986)までは佐賀県労働会館、平成4年(1992)7月まで労働団体の本部として使用されてきた。 旧古賀銀行の建物は創建後に数度に亘ってその用途が変わったが、中でも大正2年(1913)の大幅な資本金増資のころに大きく増築され、東西方向に約2倍、南北方向に約1.5倍に拡張され、現在の規模になったと推定される。西面中央には寄棟屋根で石造円柱を有するポーチも付された。その後、佐賀県労働会館、労働組合県本部としての使用に際し、南面入り口2か所の3層の塔状突起部の撤去や内部の改造等が行われた。 この旧古賀銀行は、新しい都市機能の一端を担う銀行建築として、従来の構法である土蔵造りを採用して建設されただけでなく、その建築自身の中に改造の歴史を残している。それは、石造りの帯を巡らした煉瓦タイル張りという形式で建物の表面を飾り、少しでも「近代建築」風であろうとする点において、近代建築が地方へと浸透していく過程を知る上で貴重な歴史遺産といえる。 旧古賀家は、旧古賀銀行の西隣にあり、旧古賀銀行の頭取を務めた古賀善平の住宅であった建物である。主屋は、古賀銀行の開業に先立つ明治17年(1884)に建てられたと伝えられている。 戦後、昭和29年以降は料亭として用いられ、宴会場などへの改築後現在に至った。 旧古賀家は南を正面として屋敷を構え、町家ではなく武家屋敷に似た配置形式をとる。西側に二階建ての土蔵造りの厨房を配し、主屋は敷地のほぼ中央に建ち、東側に17畳半の座敷を配する。主屋は座敷を中心に東西に長く延び、西側に茶室、北側背面に奥座敷、南側正面に玄関を設ける。これを覆う屋根は入母屋造り桟瓦葺きで、全体の形状はT字型をなし、その前に独立した入母屋造りの玄関棟が付く構成である。 表座敷の床構えは創建時の特色を良く伝え、土蔵造りの厨房と付属の座敷も同時期の建設と見られる。座敷を始め住宅の主要部分は良く残存し、旧古賀家は本格的な屋敷構えで規模格式にも優れ、明治期の上流階級の住宅遺構として貴重な存在であり、旧古賀銀行と合わせ重要な歴史遺産である。
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旧牛島家 一棟
重要文化財
旧牛島家住宅は、佐賀市朝日町3番24号(旧今宿町63番地)に所在した町家建築で、佐賀江川に面した北側を正面として建っていた。通りに接して主屋を建て、続いて釜屋、奥には2棟の土蔵があり、水路を背に配していた。平成5年度に前面道路拡幅の際、佐賀市が主屋と釜屋を譲り受け、実測調査及び痕跡調査を行い解体し、佐賀市柳町に移転・復原され、平成9年10月に佐賀市歴史民俗館の一館として開館した。 旧牛島家住宅の屋敷地は、嘉永7年(1854)「下今宿町竃帳(かまどちょう)」に下今宿町の姥役(おとなやく)を務めた問屋を営む高柳伊助の屋敷として記載される。明治23年(1890)制作の銅板画「佐賀県独案内(ひとりあんない)」にも、煙草仲買商・海陸運漕店を営む高柳伊代助の店として外観が描かれる。明治後期以降は油屋を第二次大戦時まで営んでいたという。 解体された主屋の外郭は「佐賀県独案内」の描く姿と異ならず、屋敷地の規模も7.7間、奥行き18.5間で、「下今宿町竃帳」記載のものと異ならない。以上と建物形式から主屋と土蔵の建立年代は江戸期に遡ることは疑いないが、佐賀市の旧城下町域に残される町家建築と形式技法を比較・編年した結果によると、主屋が建てられたのは18世紀に遡ると推定される。 解体時の調査によると、建築当初の主屋は西側と南側に土間を巡らし、居室部に表の間と中の間を設けた単純な平面構成で、2階は表の間のみに設けられ、中の間・土間部分は上部を吹き抜いている。座敷と目される居室はなく、表の間2階に床柱のみ設けられる。柱を間引かずに整然と建て、南側の閉鎖的かつ広大な土間空間を備える点と、床と床脇からなる定型的な座敷飾りを備えない点が、江戸中期の特色を示している。当初の表構えは土蔵作りではなく、2階に出格子を設け、1階は大戸と蔀戸(しとみど)を建て込んだもので、その姿は「佐賀県独案内」にうかがえる。 主屋には明治中期に至って、南側の土間空間に続き間の座敷が設けられ、明治末期には2階表構えが土蔵造りに改められ、さらに釜屋を建て替え、表構え1階東側にも出格子が設けられ、それぞれの時代にふさわしい姿に整えられてきた。 佐賀旧城下町域に残された町家建築の中では最古のもので、多くの改造を経ているとはいえ、城下町における生活の基盤をなした町家建築の江戸中期の構成を知る遺構として貴重な存在であり、数少ない佐賀の明治期における町家建築の構成を知る資料としても貴重である。
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旧福田家住宅 一棟
重要文化財
旧福田家住宅は、明治末期から大正期・昭和初期にかけて、佐賀を代表する実業家として活躍した福田慶四郎の居宅である。大正6年(1917)9月3日に起工し、翌7年10月25日に落成したと、棟札に記されており、戦後の一時期は佐賀県議員会館として利用されたこともある。 北面して建つ入母屋造り二階建ての主屋を中心に、和洋それぞれの様式の応接室や数奇屋造りの茶室などを配し、南側には庭園、東側には土蔵が設けられている。 建物の内部は、細部に至るまで丁寧な造りであり、接客のために多様な空間が用意されている。また、落ち着いたたたずまいの中に、華やかなアクセントがちりばめられ、端正な中に華麗な表情を見せている。 江戸期に完成した伝統的建築技術は、近代には技術と芸術がその頂点を極めたとされる。この旧福田家住宅はこうした特徴をすべて備えた、大正期の近代和風建築である。
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旧三省銀行(付属棟含む)一棟
重要文化財
三省銀行は、明治15年(1882)7月に佐賀藩士柿久栄次を頭取として設立された三省社を、明治18年に正式の銀行に改めたものである。当初は順調な経営であったが、投機師専門の金融機関化し、明治26年(1893)、廃業するに至っている。 その後、この建物を買い取った杵島郡大日村の医師木塚紋太郎が、医院を開業し、昭和4年(1929)には池田医院となり、昭和51年(1976)まで営業を続けた。 建物は、三省社創業時の明治15年に新築されたもので、南面して建つ妻入り切妻造りの主屋の背面に、庭と土蔵などが設けられている。 医院時代が大半であるため、そのための改造が大きかったが、平成10年(1998)の解体修理により、新築時代の形状に復元することができた。内部は、佐賀の伝統的町家の形式である吹き抜けのある中の間を中心にしつつ、業務用建築らしい大らかな空間構成をとり、外部は上方に向かってふくらみを持つ屋根や、大胆な形状の窓など、人目を引く特異な表情を持つ。 このように、明治時代前期の息吹をも感じさせる、他に類例のない、個性豊かな建築物である。
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思案橋荷揚げ場跡
史跡
江戸~明治期の物資運搬は、人力運搬や荷車・人力車による車運搬と共に、舟運が重要な手段で、思案橋界隈が物資の取り扱い場として栄えていたことが文献資料等からもわかる。発見された遺構は、そのことを具体的に裏付けるものであり、商業地として栄えた往時の重要な流通手段となっていた舟運に関連する遺構は、佐賀城下の歴史を知る上で貴重なものである。 また、石垣護岸と雁木(がんぎ)が一体となって状態よく残っており、佐賀城下では初めての発見である。石段の据え方などの構築技術を知る上で貴重であると同時に、長崎街道と紺屋川が交差する特徴的な景観を留める場所で、江戸時代から現代にいたる川幅や土地利用の変遷、それによる景観の移り変わりをたどることができる場所である。