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[指定文化財][国][建造物]は6件登録されています。
指定文化財 国 建造物
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山口家住宅
重要文化財
山口家住宅は佐賀市川副町大詫間(おおだくま)に所在する。大詫間地区は筑後川によって出来た大三角州で、北半は福岡県大川市大野島、南半が大詫間島である。寛永(1624~1644)のころ干潟が成長し、肥前・筑後の境界争いが起きたが、正保元年(1644)に和議が成立する。 山口家住宅の建築年代については直接的な資料はないが、19世紀初頭と推定されている。 建物は北面し、正面11.1メートル(間口5間半)、側面11.9メートル(奥行6間)のほぼ正方形の建物で寄棟(よせむね)造り、よし葺きの屋根をロの字形にかけ、正面に馬屋を配する。内部は、縦に二分され、西側半分が土間、東側半分は北側から座敷以下5室がある。 この間取りは、佐賀県北部や西部の農家と異なり、町屋に近いが、座敷を表側にとる点は異っている。 構造は上屋の四方に下屋がつき、両側面と背面は本屋根を葺きおろし、正面には瓦ひさしをつける。また壁外回りには葦を巻く。 この家の屋根は、棟が四方にまわっていて、その内側がじょうご状になり、雨水は中央に集まる。これを小屋裏のテェ(樋)に受け西側面の軒下に導いて排水している。このようなロの字形の屋根の家は「じょうご谷造」とよばれており、佐賀県東南部と福岡県西南部に分布する、極めて風土色の濃い民家建築である。山口家住宅は中でも、建築年代が古く、旧状をよくとどめる。
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旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋) 一基
重要文化財
旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)は、有明海に注ぐ筑後川河口より約8.5キロメートル上流に位置する昇開式の可動橋である。 旧筑後川橋梁は、国鉄佐賀線の鉄道橋梁として建設され、昭和10年(1935)竣工、同年5月25日に開業した。建設するにあたっては、位置的に筑後川の河口付近で、有明海の潮の干満の影響も直に受ける地理的条件があり、しかも、付近には港もあり、建設当時は船が主要交通機関であったため、大型船の往来も激しかった。通常の橋だと干満の影響で船が通れなくなってしまう可能性があったため、中央部の橋が稼動して船が通れる構造になった。竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれた。 橋の全長は507.2メートル、可動部分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。中央部分にある可動桁は、48トンの重量があり桁の左右にある高さ30メートルの吊上塔(鉄塔)には4本のガイドレールが走り、この上で滑車が回り機械室内の巻上装置を介してワイヤで23メートルの高さまで引き上げることができる。引き上げるときは可動部分と吊り合う重量の鋼鉄製のおもりを鉄塔からワイヤーで吊るし、巻上装置の負担を減らし、平衡ワイヤーにより左右のバランスをとり、強風にも耐える構造となっている。 国鉄の民営化を前に昭和62年(1987)3月27日限りで佐賀線は廃線となり、同橋梁も閉鎖され、筑後川を管理する当時の建設省からも撤去勧告がなされ、解体も検討された。しかし地元では橋存続の要望が強く、平成8年(1996)に遊歩道として復活し、現在では大川市と佐賀市諸富町のシンボル的存在である。また、橋の両端には公園が整備されていて、現役当時の橋の姿のモニュメントや佐賀線に使われていた3灯式信号機や警報機などが保存されている。
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吉村家住宅
重要文化財
上無津呂は筑紫山地の中心部であり、佐賀県の代表的山村である。この山間部には棟(むね)が一直線をなす直家(すぐや)形式の民家が多数みられる。吉村家住宅はその代表的な家屋の一つで、西北隅の部屋の側(そば)桁(けた)継ぎ手部分に書かれた墨書銘には 大工 落合村 羽右衛門 とあり、この家屋が天明9年(1789)に建築されたものであることがわかる。これは本県下における年代の明らかな民家としては最古のものである。 建物は南面し、桁行(けたゆき)8間(約14.4メートル)、梁間(はりま)5間(約9メートル)、寄棟(よせむね)造り、内部は東に土間をとり、床上は5室に分かれる。 間取りは当初東側を土間ニワとし、これに沿って12畳の「ナカエ」をおき、この上手表側に4畳の「ナカザ」と8畳の「ザシキ」、裏側に細長い「ナンド」、ナカエの裏側に台所を配していた。この間取りは三間取広間型系の発展した形とみることができる。 なお、昭和57・58年度には、老朽化が激しいこともあって、半解体修理が実施された。 吉村家住宅は、佐賀県北部山地に多い直家形式の農家として、年代の明らかな民家として学術的価値が高い。
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与賀神社三の鳥居及び石橋 二基
重要文化財
与賀神社三の鳥居は慶長8年(1603)佐賀藩祖鍋島直茂の北方藤女(陽泰院)の奉献になるもので、高さ3.90メートル、笠木の長さ5.65メートルである。肥前鳥居は、室町時代の末期ごろに肥前国を中心として造立された石造文化の一つで、江戸時代初期に最盛期を迎えている。 その形式は、笠木と島木が一体化し、先端は流線形を呈しており、笠木・貫・柱が3本継で、柱の下部は張り出して生け込みとなっているなど、特色のある構造を有している。 与賀神社の烏居は、造立の古いものの一つとして、また、最も典型的なものの一例として価値が高いものである。 石橋1基は、長さ10.5メートル、幅3.15メートル、川床までの高さは中央部で1.78メートルで、両側に高さ56センチメートルの欄干があり、10個の擬宝珠がついている。ゆるい曲線をもつ反り橋で橋脚は3本併立の6列である。擬宝珠の銅板に 肥前州与賀荘 正一位与止日女大明神 …… 慶長十一年丙午南呂彼岸日 鍋島加賀守豊臣朝臣直茂造立之 の線刻銘があり、江戸時代初期の石橋として県内で唯一のものである。
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佐賀城鯱の門及び続櫓 一棟
重要文化財
佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中城を鍋島直茂(なおしげ)・勝茂(かつしげ)父子によって、慶長13年(1607)から慶長16年までの佐賀城総普請によって整備拡張されたものである。 この鯱の門は、天保6年(1835)から始まる本丸再建に際し、本丸の門として天保9年(1838)に完成したものである。 本来、城門は戦時の防備に重きを置き計画されているが、建築年代が江戸時代後期でもあり、建物があるべき防備の役割は形骸化が進み、装飾的要素が前面に出てくる。 鯱の門周辺の防備は、門の南北に高石垣が連なり、本来、門と天守台までの高石垣の中ほどから、現在は削平されてしまっているが、北方に向かって土塁が設けられていた。 「櫓(やぐら)」の本来の意味は、「矢倉(やぐら)」=武器庫であり、この櫓の発展形態が天守である。櫓門とは、通用する門構えに2階を上げた形式をいう。 鯱の門に附属している続櫓は、石垣天端いっぱいには建てられておらず、「犬走り」がめぐる。1階部分の左右には、床張りの門衛所があり、また、門内北側には番所が接続されるなど、近世城郭の初期には見られない機能的な形態となっている。 建物は二重二階の櫓門に一重二階の続櫓が配されている。櫓門の正面の桁行は5間(約11.9メートル)、礎石上から棟瓦上まで約12.5メートルを測る。 この門は明治7年(1874)の佐賀の役でも弾雨にさらされ、現在でも弾痕が観察できる。その後、佐賀商業学校の門として同校のシンボルとなっていた。明治以降幾度かの小修理がなされたが、建築から120余年の昭和36年(1961)に、大修理が行われた。 この昭和の大修理の際、部材に大工の氏名や年代の墨書が発見され、この門が移設や転用材を用いたものではなく、本丸再建に伴う新建築物であることがわかった。 鯱は、北方のものが、高さ1.70メートル、重量190キログラム、南方のものが高さ1.75メートル、重量210キログラム、製作者「冶工谷口清左衛門」(刻銘)とあった。谷口家は、佐賀藩の御用鋳物師であり、幕末にはわが国で最初の「反射炉」建設及び運営に活躍した。 鯱の門は、この城門に続く石垣とともに往時の佐賀城をしのぶにたる佐賀城の建物遺構として貴重である。
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与賀神社楼門 一棟
重要文化財
与賀神社楼門は、構造形式から見ると、室町時代前後のものと推定される。『藤龍家譜』によれば、「文明14年(1428)大宰少弐政資が、父教頼(のりより)の旧館を改修して与賀城を築き、与賀神社を城の鬼門の鎮守となし」との記載があり、それと推考される。 その後、文禄5年(1596)大修理を行い、寛文3年(1663)宝暦年間や、幕末及び明治・大正にも小修理が行われた。 最初は柿葺(こけらぶき)であったが、後に銅葺に改められた。終戦後腐朽し建物全体が弛緩したので、昭和25年(1950)11月、文化財保護委貝会の指導を受けて、全部解体し、後世改修していた部分は旧状に復し、根本修理が実施され、同27年(1952)5月に完成した。 この楼門は正面3間、側面2間、白然石の礎石に円柱を建て、中央通りの床を石敷とし、なかに両開框組板戸を設けている。正面の両端間には組格子窓、両側面各間と後面両端間は、板嵌である。 初層の斗栱(ときょう)は四方廻縁(まわりえん)の腰組となって、縁廻をうけている。縁四方には和様の勾欄(こうらん)をめぐらしている。斗栱は廻縁下は和様の連三斗、上層は和様の出組で絵様拳鼻がついている。軒廻は地種、飛檐棰(ひえんたるき)とも疎棰(そたるき)に配置して二軒となって、頭貫鼻、墓股等随所に絵模様彫刻が使われている。 この楼門は軸部、軒廻、斗栱等の大部分の化粧材を丹塗(にぬり)とし、格子組は黒塗、木口は黄土塗である。全体の様式は和様の手法によっているが、細部には唐様の手法も使われている。佐賀県下では現存する最古級の木造建築物であって、極めて貴重な遺構といえる。