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[指定文化財][国][勧興校区]は6件登録されています。
指定文化財 国 勧興校区
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紙本墨書東遊歌神楽歌 一巻
重要文化財
東遊歌(あずまあそびうた)とは関東から東海道の一部を含めた地方の風俗歌で、「三代実録(さんだいじつろく)」の貞観(じょうがん)3年(861)3月14日の条に倭舞と東舞の記述があるが、大和地方の倭舞とならんで祭礼で一定の方式で奉納されるようになった。 この本の東遊歌に続いて記されている神楽歌(かぐらうた)は、もともと神前で奉納する楽舞であるが、その中でも宮中で奏される特定形式の神事歌謡を集めたものである。宮中向きに歌詞や曲調の構成に工夫したものであり、この宮神楽は宮中の清暑堂で奏されたが、長保4年(1002)からは内侍所(賢所)の前庭において奏されるようになった。当日夜になって篝(かがり)火をたいて、神をお迎えする歌舞から始まり、ついで神をなぐさめ、人も楽しむ歌舞が主要部で、最後に神を天にお送りする歌舞が、夜が明けるころに終わるという構成になっている。一夜を歌い舞うので歌の数も多い。 鍋島家本は東遊歌と後に神楽歌を採録してある。字体は万葉仮名を主とし、古い平仮名字体も交える。共に平安時代後期の写本であるが、他本との歌詞の異同・各詩の唱法及びその作法等の記載が多く、奉納の順序が整然と記載されており、優れた資料的価値を持つ。 (写真:鍋島報效会提供)
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松浦山代家文書(六十六通) 二巻
重要文化財
山代氏は、西松浦郡山代(伊万里市北西部)を根拠とした松浦党の一族であって、松浦山代氏系図によれば、松浦党の祖、源久の孫圍に始まる家である。圍12世の孫、貞は幼名を虎王丸といい、ついで弥七郎、のち喜左衛門尉茂貞と名乗った。天正7年(1579)に龍造寺隆信に従い、隆信没後、鍋島氏に属して、杵島郡葦原に知行2,250石を与えられ、鍋島の姓を許された。 文書は鎌倉初期から南北朝末期に至るもので、「六波羅施行状」「大宰府守護所下文」「関東下知状」「関東御教書」など一連の文書は山代氏が松浦地方における有力な御家人であったことを裏づけるもので、内容は所領についての相論(土地に関して両当事者がおのおの権利を主張し、訴訟して争うこと)などである。また、正応2年(1289)「蒙古合戦勲功賞神崎庄配分状案」では、蒙古合戦で奮戦した山代又三郎栄が、神埼庄竹村などに十町の配分を受けたことがわかり、九州在地の武士として活躍していることも知られる。文書は総数66通が2巻の巻子本に仕立てられている。 (写真:鍋島報效会提供)
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深堀家文書(三八六通) 九巻
重要文化財
深堀(ふかぼり)家は上総国(かずさのくに)の後家人である。建長7年(1255)一族の能仲が肥前国彼杵郡(そのぎぐん)八浦(現長崎市深堀)に地頭職(じとうしき)を与えられた。蒙古襲来後、異国警固番役(いこくけいごばんやく)に備えるため、この地に土着、以来一族はこの地方に繁栄して近世初期に至った。豊臣秀吉が九州入りすると、一時これに従ったが、のち鍋島氏に属してその宿老(しゅくろう)となった。 文書は、大部分が鎌倉・南北朝期のものである。内容は東国後家人の西国下向(げこう)の実態・その活動・定住後の軍事行動・恩賞配分(おんしょうはいぶん)等を最も詳細に知ることができるもので、正応2年(1289)の「蒙古合戦勲功賞肥前国神崎荘配分状」によれば、蒙古合戦の恩賞として神埼に三町を配分されたことが、細かい坪付(つぼつけ)とともに分る。建武3年(1336)の「深堀時広軍忠状」では豊後の玖珠(くす)城攻めなどにも参加しており、その行動範囲は広い。また、南北朝期には勲功賞として「肥前国宇礼志野(嬉野)」などに地頭職を与えられている。この外関東御教書から足利尊氏・その子直冬(ただふゆ)・一色道猷(いっしきどうゆう)…豊臣秀吉に至るさまざまな文書により在地の九州の武士と中央政権との係わり方を見ることができる。 (写真:鍋島報效会提供)
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催馬楽譜 一冊
国宝
催馬楽(さいばら)は、もともと平安時代初期に民間で広く歌われていた古代歌謡のひとつであったが、やがて貴族の間に取り入れられ、その後宮廷において広く用いられるようになり、譜の撰定も数次にわたって行われ、旋律も不定であったものが、平安時代中期には律(りつ)・呂(りょ)二種の旋法に固定化した。 本書は鍋島本といわれるもので、縦25.5センチメートル、横16.7センチメートルの和綴本で、飛雲文様のある料紙に押界を施し、首に律・呂の順に拍子と段数を記した目録を掲げ、続いて引声(いんじょう)・拍子を加えた本文を記している。目録には、呂歌三十六首と記すが、現在は呂歌のうち真金吹(まがねふく)、此殿者(このとのは)、此殿乃の全部と芦垣の後半、山代の前半を欠く。半葉七行ずつ、万葉仮名を用いて温雅(おんが)な楷書にて一筆で写されている。平安時代後期の書写とみられ、催馬楽古写本では最も古いものである。 (写真:鍋島報效会提供)
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色絵椿文大皿 鍋島 二枚
重要文化財
安政2年(1855)に作成された『御寄附物帳』に、鍋島勝茂から菩提寺の高伝寺へ寄進されたものとして記載されている「南京焼錦手大御鉢 壱ツ損物 二」に該当する作品で、2枚一対で伝来したものである。 2枚ともロクロで引き上げて成形している。口縁部は折縁にしてイゲ縁状に角をつけている。内外に呉須で文様を描き、内面のみ色絵を施している。文様は基本的に同じであるが、口縁部の花頭状の区画文様に若干の違いが見られる。素地の厚みや焼成状態にも差異が見られ、甲は素地がやや厚く十分な焼成がなされていて青味が強い。こちらの口縁部に補修があり、『御寄附物帳』にいう「壱ツ損物」にあたると考えられる。乙は素地がやや薄く焼があまくて細かい貫入が多い。法量は以下のとおり。 甲 口径39.1センチメートル、高さ9.4センチメートル、底径20.3センチメートル。 乙 口径38.7センチメートル、高さ9.7センチメートル、底径19.5センチメートル。 これらは、同時期に同工房でつくられたものと考えてよいが、見込みの椿文の表現に相違点があり、甲が有田の初期色絵に多い色絵の黒線で輪郭を引くのに対して、乙はのちの鍋島焼が特徴の第一とする染付輪郭線(骨描き)を用いる。また、双方ともに口縁部に有田の初期色絵と通じる花唐草文の表現法が見られるとともに、高く削り出した高台やハリ支えを一切使用しない点など鍋島焼につながる技法が見られる。 以上のことから、これらの作品は大川内山鍋島焼の前身的な窯である有田岩谷川内の御道具山で制作されたと推測され、肥前の色絵磁器の変遷を知る上で大変価値が高い。 (写真:鍋島報效会提供)
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色絵山水竹鳥文輪花大皿 一枚 (附)色絵山水竹鳥文輪花大皿 一枚
重要文化財
安政2年(1855)に作成された『御寄附物帳』に、鍋島勝茂から菩提寺の高伝寺へ寄進されたものとして記載されている「青絵御鉢 内壱ツ裏銘大明嘉靖年製 二」に該当する作品で、2枚一対で伝来したものである。 1枚は中国景徳鎮の作品で、型打ち形成により口縁部を稜花形につくり、内外に呉須で文様を描いて色絵を施している。口径34.1センチメートル、高さ 5.1センチメートル、底径22.5センチメートル。 もう1枚は、景徳鎮の作品と同形同工の写しの有田焼。口径34.5センチメートル、高さ 7.0センチメートル、底径22.5センチメートル。 景徳鎮の大皿の高台内には、色絵の赤枠内に「大明嘉靖年製 福」の銘が染付けされるが、このような銘は、崇禎期(1628~44)ごろの色絵祥瑞と称される一群の作品の中に見られる特徴である。この作品で特筆すべき点は、高台周辺の釉の傷を色絵で塗り隠している点と内面の主たる意匠を色絵で塗りつぶしている点で、有田の初期色絵の、いわゆる古九谷様式のうち、特に青手様式に通じる技法である。 有田の大皿は、染付け文様は景徳鎮を忠実に模しているが、色絵の配色を違えている。底が少し垂れて全体に歪みが生じ、色絵も焼きすぎて赤が黒ずんでいて、焼成技術が未熟で試行錯誤している段階を示している。 景徳鎮の大皿とその写しの大皿が一対となって伝世していることは、有田の初期色絵が中国景徳鎮窯作品の直接的影響によって成立したことを示すものであり、肥前陶磁器を研究する上での貴重な資料といえる。また、鍋島勝茂の御道具であったことも考えられることから、肥前磁器の開発における藩主の関与をうかがわせる点も重要である。 (写真:鍋島報效会提供)