深堀家文書(三八六通) 九巻

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深堀家文書(三八六通) 九巻

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■所在地佐賀市松原二丁目 鍋島報效会
■文化財指定状況国 重要文化財
■文化財指定日昭和56年7月2日
■登録ID5332

深堀(ふかぼり)家は上総国(かずさのくに)の後家人である。建長7年(1255)一族の能仲が肥前国彼杵郡(そのぎぐん)八浦(現長崎市深堀)に地頭職(じとうしき)を与えられた。蒙古襲来後、異国警固番役(いこくけいごばんやく)に備えるため、この地に土着、以来一族はこの地方に繁栄して近世初期に至った。豊臣秀吉が九州入りすると、一時これに従ったが、のち鍋島氏に属してその宿老(しゅくろう)となった。
文書は、大部分が鎌倉・南北朝期のものである。内容は東国後家人の西国下向(げこう)の実態・その活動・定住後の軍事行動・恩賞配分(おんしょうはいぶん)等を最も詳細に知ることができるもので、正応2年(1289)の「蒙古合戦勲功賞肥前国神崎荘配分状」によれば、蒙古合戦の恩賞として神埼に三町を配分されたことが、細かい坪付(つぼつけ)とともに分る。建武3年(1336)の「深堀時広軍忠状」では豊後の玖珠(くす)城攻めなどにも参加しており、その行動範囲は広い。また、南北朝期には勲功賞として「肥前国宇礼志野(嬉野)」などに地頭職を与えられている。この外関東御教書から足利尊氏・その子直冬(ただふゆ)・一色道猷(いっしきどうゆう)…豊臣秀吉に至るさまざまな文書により在地の九州の武士と中央政権との係わり方を見ることができる。
(写真:鍋島報效会提供)