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[指定文化財][国][久保泉校区]は5件登録されています。
指定文化財 国 久保泉校区
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エヒメアヤメ自生南限地帯
天然記念物
エヒメアヤメの自生地は、史跡帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごごいし)の列石線内にあって、別名タレユエソウと呼ばれているアヤメ科の多年性草木である。長さ15~20センチメートルほどの剣状の細長い葉を直立させ、葉間から10センチメートル内外の花茎(かけい)を出して、桜の散るころにアヤメの花を小さくしたすみれくらいの一花を開き、紫色のきわめて可憐(かれん)な花を咲かせる。 その分布は、もともと寒冷・乾燥の地を好むので、ヨーロッパのアルプス地方から中国東北地方・朝鮮半島付近まで普通に自生している。わが国では、瀬戸内海周辺の山陽・四国・北九州にのみ自生している。 エヒメアヤメという名は、古くから愛媛県腰折山に自生していることが知られていて、牧野富太郎博士によって命名されたものとされる。 大正7年(1918)に神埼市日の隈山で発見されたころは、みやき町から小城市清水付近の山中に見ることができたが、現在は自生地が限定されている。 エヒメアヤメは、アジア大陸と日本列島の西南部との植物分布関係を研究する上から貴重な価値を有するものである。
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帯隈山神籠石
重要文化財
神籠石は佐賀市の北部山麓に築かれた古代山城(やまじろ)である。帯隈山(標高175メートル)を中心に切石を並べた列石線が約2.4キロメートルの長さで一周し、途中、北面に門跡1か所、南面に水門推定地3か所がある。昭和16年(1941)に発見され、同39年に発掘調査された。 列石線は帯隈山から天童(てんどう)岳、清兵衛(せいべい)山にかけ、尾根上を地形に合わせて複雑に屈曲し、途中、小さな谷を渡る場合は出水に備えて水門を設けていたと思われる。全体としては北側山頂部から下って南側山裾を廻り、2、3の低丘陵を取り囲んで馬蹄(ばてい)形状をなす。列石の用材は花崗岩(かこうがん)で、高さ60センチメートル前後の直方体に切りそろえられたものである。 神籠石という名称は、かつてこの列石が神域を示すものと考えられていたことによるが、発掘調査の結果、実は列石は土塁(どるい)の基礎であり、その背後上部には高さ2、3メートルの土塁が版築(はんちく)によって築かれ、また石塁前面の平坦部には約3メートル間隔で木柵が立てられていることがわかっている。 神籠石は現在、北部九州から瀬戸内一部にかけて12か所知られる。しかし、その存在は文献に明らかでなく、また規模や立地、域内に建物跡がみられないなどの点で、基肄城(きいじょう)跡など朝鮮式山城と様相が異なる。6、7世紀ごろの築城とされるが、正確な年代、目的、性格となると不明で、今日でもまだ謎が多い。
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白鬚神社の田楽
重要無形民俗文化財
白鬚神社は、近江の国白髪大明神の分霊を勧請した古社と伝えられる。勧請に奉仕した19の家があって、いずれも姓に丸字をつけているので、丸持の家といわれ、丸祭と呼ぶ古式の祭りが伝承されている。毎年10月18、19日に行われる秋季例祭に、川久保集落の人たちによって奉納される舞楽がすなわち田楽である。 白髪神社における田楽の史料上の初見は、寛文5年(1665)に編さんされた『肥前古跡縁起』が最初で、ついで 享保19年(1734)建設の石鳥居に「時奏村田楽」とあるくらいで乏しい。 田楽の起源は平安時代、田植のおりに笛や鼓などを奏しながら歌い舞ったものが、次第に形を整えて専業化し、神社仏閣などに奉奏するようになったものと考えられる。 白鬚神社の田楽は神社境内に設けられた玉垣(たまがき)(青竹で組んだ囲い)の中で行われる。 当日の早朝、田楽衆はみそぎをして身を清め、午前11時頃に神社社務所に集合し、衣裳を着つけ、化粧などの準備をする。ササラツキ4名(オモ2名、ワキ2名)は、美しく女装した少年で、顔は化粧をして点彩をほどこし、袖と裾に波と兎の紋様のある青地の着物に、黒の繻子帯(しゅすおび)を前に結んでその両端を長く垂らす。後頭部に女性のかもじを下げ、大きな花笠をかぶる。花笠は割竹を編んで紙を貼ったもので、造花をつけた竹へご数10本を突き刺している。この花笠の上に古鏡二面をとりつけた女帯を二筋ずつ垂らす。手にササラ(編木)を持つ。カケウチ(2名)は腰の前に太鼓を吊し背中に金銀で飾った木刀を負った若者による。ハナカタメ(1名)は鉢巻きを締めて手に造花をつけた棒と扇を持った幼児で、スッテンテン(1名)は金色の立烏帽子(たてえぼし)をかぶり手に小鼓(こつづみ)と扇を持つ。笛役(7名)は大人で、世襲で、うち熟練者1名が頭取(とうどり)として全体の指揮にあたる。 定刻になると行列を整えて、神社の鳥居まで「道行(みちゆき)」を行う。このとき、ハナカタメとスッテンテンは付き添いの男性に肩車をされて移動する。行列が鳥居にかかると、「鳥居(とりい)がかり」の曲が奏され、この後一同は境内に入り、社殿前に青竹で作られた玉垣内に入り、それぞれ定められた位置で、まず、「三三九度(さんさんくど)」が演じられる。カケウチは左右に相対して跪坐(きざ)し、ときどき掛声を発して太鼓を打つ。ササラツキのうちオモ2名が前方に進み出て相対して立ち、囃子につれてササラをつき、わずかに位置をかえる緩慢な所作が行われる。のち、ササラを置いて扇をひらき、緩やかな所作を行うと、オモにかわってワキ2名が進み出て、しばらくオモと同じ所作を行う。最後にスッテンテンとハナカタメが並んで進み、一周してもとの位置に戻って座る。ついで、「つきさし」「さざれすくい」「四方立(しほうだち)」「おさえばち」「むこうにみあし」といった曲が1時間30分余りをかけて演じられる。一部カケウチの活発な動きはあるものの、全体としてはゆっくりとした曲と動きである。 佐賀県下に残る唯一の田楽である。鼓打ちの稚児(ちご)をスッテンテン(シテテンの変化)と呼ぶなど田楽の古い姿を伝えている。また、子どもたちが主体なので稚児田楽ともいわれ、演者の衣装と化粧にも特色がある。特にササラツキは少年が女装をするが、花笠は他の田楽に見られない異風なもので、風流の影響が考えられる。演者は田楽奉納の期間中はみそぎをし魚肉を遠ざけ精進をしなければならない。もし、精進を破ったばあいは、演舞中に気分が悪くなるといわれ、改めてみそぎをし直す。地区に定着する中で独自の展開を見せ、地域的特色も顕著である。芸能の変遷の過程を知る上で重要であり、九州に残る希少な田楽である。
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木造普賢延命菩薩騎象像 康俊作 一躯
重要文化財
龍田寺(りゅうでんじ)は、元亨(げんこう)年間(1321~24)に、一地上人(いっちしょうにん)の開山になると伝える真言律宗寺院で、この木造普賢延命菩薩騎象像を本尊とする。 普賢延命菩薩は、息災延命を祈る修法(すほう)の本尊とされ、6本の牙をもつ白象上に二臂(ひ)あるいは二十臂に表現されることが多い。 本像は、4頭の白象上の蓮華(れんげ)座に結跏趺坐(けっかふざ)する二十臂の普賢延命菩薩像で、上下二重の円光背(こうはい)を負う。像高は71.7センチメートル。桧材による寄木造(よせぎづくり)で、表面に漆箔(しっぱく)を施こす。体内に内刳(ぐ)りを施し、目に水晶をはめこんで玉眼とする。頭上には金箔をはった銅製の宝冠を戴き頸(くび)飾を懸ける。 髻(もとどり)を高く結い、頬(ほお)が豊かに肉付いた丸顔で、目を切長に半眼とし、口元を締める。肩はややなで肩で、胸は膨らみを表現するために波打つ窪みを刻み、腹の膨らみは緩やかな弓状を描く線を刻んで表現する。膝は張り、厚みとも上半身に比べて小さいが、これは本像が高い台座に乗るため、下からの観賞に備えるためでもあろう。衣制は、背子(はいし)(肩掛)・条帛(じょうはく)・裳(も)を着けるが、これは厚手のものではない。衣の襞(ひだ)は写実趣味に基づきながら、細部を省いた強い曲線で表現する。 これらの特徴は、鎌倉時代末期から南北朝時代の仏像に共通する。 台座蓮肉裏の造立銘により、鎌倉時代末期の正中3年(1326)に、南都興福寺の大仏師康俊(こうしゅん)の作であったことが知られる。康俊は鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した慶派の流れをくむ正統仏師である。
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舟形石棺(附あり) 一合
重要文化財
佐賀市久保泉町川久保にある標高55.5メートルの熊本山の北側高所から箱式石棺1基、南側高所から箱式石棺5基と舟形石棺1基が昭和36年(1961)に出土した。 舟形石棺は、径30メートル余りの円墳と思われる高まりの土中に直接埋置されていた。福岡県八女(やめ)地方産の阿蘇熔結凝灰岩を3室に刳りぬいた身と蓋(ふた)からなる石棺は、長さ4.3メートル、最大幅88センチメートル、身の最大高53センチメートルと長大で、内面は赤く塗彩されている。身・蓋とも刳り抜きや両端にある孔は対応し、身の両側面にも円孔が見られる。身の底部は、舟底形を呈しゆるやかな曲線をえがき、内部は、主室を中心に両端に副室を設けておりその構造は舟型石棺の名称にふさわしいものである。 中央室の刳り抜きは長さ2.03メートルで、造り出し枕に頭を置いた人骨1体と差し違えてもう1体の人骨があり、鉄剣2口・鉄刀1口が出土した。中央室の両側にある小形の刳り抜きのうち、枕側の北室に多くの副葬品が納められており、南室からは用途不明の鉄製工具1個が発見されたのみである。 北室からは、革綴(かわつづり)式の短甲(たんこう)1具、四獣鏡1面、鉄剣1口、釶(やりがんな)1個、鉄針1本、ヒスイ製とメノウ製の勾玉(まがたま)各1個、碧玉製管玉(へいぎょくせいくだたま)18個、水色のガラス製小玉162個、碧玉製紡錘車(ぼうすいしゃ)2個が出土した。獣帯鏡(径10.7センチメートル)は徳島県節句山2号古墳出土鏡と同じ鋳型で鋳造されたもので、熊本山のものが後鋳品である。 この舟形石棺は、その構造および副葬品などからみても、畿内地方の文化の影響を強く受けた5世紀前半ごろの所産であると考えられる。