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[指定文化財][国][金立校区]は3件登録されています。
指定文化財 国 金立校区
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東名(ひがしみょう)遺跡
史跡
東名遺跡は、今からおよそ8,000年前の縄文時代早期の遺跡で、国内最古の湿地性貝塚です。遺跡には居住域・墓地・貝塚・貯蔵穴がセットで残されており、縄文時代のムラ全体の様子が良くわかる国内でも数少ない例として貴重なものです。 また、縄文海進の影響で、遺跡全体が厚い粘土層に覆われるなど保存条件にも恵まれ、国内最古級の様々な遺構・遺物が良好に残存しており、日本の生活文化の源流を考える上で極めて重要な遺跡です。
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銚子塚
史跡
脊振山系南麓から南へ1キロメートルほど下ったゆるやかな微高地上、標高15メートル付近に位置する前方後円墳である。前方部を西に向け、全長98メートル、後円部径58メートル、高さ8メートル、前方部幅32メートル、高さ4.6メートルである。墳形は前期古墳に特徴的な柄鏡(えかがみ)形で、後円部と前方部の比高差も大きい。前方部は戦中戦後の開墾と土取りで段状に削られ、斜面部は石垣となっているが、墳丘の遺存度は良好である。後円部が3段に、前方部が2段に築成され、後円部には花崗岩質の葺(ふき)石が多数認められる。周濠は幅11.5メートル~28メートルと広く、墳丘に沿って巡っており、中期古墳に多い楯形(たてがた)周濠に先行する形態である。内部主体は竪穴(たてあな)式石室と推定されるが、実態は明らかでない。現在、墳頂に忠魂碑が建てられているが、大きな盗掘の跡などは認められず、内部主体、副葬品等の遺存状況は良好であると思われる。 本墳を特徴づける出土遺物に土師器(はじき)の二重口縁壼6個体以上がある。これらは開墾中に偶然出土したもので、その出土位置は南側くびれ部の2段目テラス付近と推定される。いずれも丹(に)塗りが施され、胴下半部が長くのびて、底部には焼成前の穿孔(せんこう)が認められるなど 形態は壼形埴輪(はにわ)に極めて近い。 本墳はその墳形と出土遺物から4世紀末ころに築かれたものと推定され、古墳時代前期の佐賀平野における政治権力の存在を知ることができるとともに古墳文化の伝播(でんぱ)と成立を考える上で重要な意義をもっている。
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西隈古墳
史跡
脊振山系南麓の緩やかな台地上、標高30メートル付近に位置する径約30メートル、高さ約4メートルの円墳である。墳丘は周囲を宅地や畑により削られているが、わりと残りは良く、2段に築成されている。墳丘上からは形象埴輪(けいしょうはにわ)・円筒(えんとう)埴輪の破片が採集されており、また葺石(ふきいし)帯の存在も確認されている。 本墳の内部主体は初期横穴(よこあな)式石室で、内部に横口式の家形(いえがた)石棺1基を納めている。玄室(げんしつ)は長さ3.3メートル、幅1.5メートル、高さ17メートルで、周壁は基底部に腰石を裾え、その上にやや偏平な塊石を平積みしている。玄関の外側には長さ2.8メートル、幅1.1~1.4メートルの前庭側壁が続く。使用石材はいずれも花崗岩で、玄室内には赤色顔料(せきしょくがんりょう)が塗られている。 玄室内の石棺は阿蘇山系の凝灰岩(ぎょうかいがん)製で、玄室主軸方向に設置されている。長さ2メートル、幅1.1メートル、高さ1.3メートルで、4枚の板石を組み合わせており、底石はない。玄関側小口面には一方にかたよって横口部が設けられている。棺の蓋(ふた)はカマボコ形に近い寄棟(よせむね)で、両長側辺に各2個の環状縄掛突起がある。棺身及び棺蓋の玄門側小口面にはコンパス痕を残す円文及び連続三角文を線刻し、図文以外の部分に赤色顔料を塗っている。本墳は以前に盗掘にあっており、挂甲片(けいこうへん)、鉄鏃(てつぞく)等の遺物がわずかに出土したのみであるが、石室・石棺の構造より5世紀末ごろの築造と推定され、環有明文化圏における石棺系装飾古墳の代表例として重要な位置を占めるものである。