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[指定文化財][国][赤松校区]は7件登録されています。
指定文化財 国 赤松校区
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カササギ生息地
天然記念物
カサザキはカラス科に属し、カラスよりやや小さく、黒色に白斑のある翼を大きくはばたかせながら飛びかっている。 カササギはアフリカの北西部及び北半球の全域に分布しているが、地域差が強く、わが国では佐賀平野を中心に生息していて、他で見ることのできない珍しい鳥である。大正12年(1923)、天然記念物にその生息地として指定された。佐賀市・鳥栖市・神埼市・三養基郡・多久市・小城市・武雄市・杵島郡・鹿島市・藤津郡と福岡県の三潴郡・山門郡が範囲である。最近は唐津市・東松浦郡・伊万里市・西松浦郡はもとより熊本県や長崎県でも生息している。 カササギは勝烏(かちがらす)、勝鳥(かちどり)、肥前烏(ひぜんがらす)などと呼ばれて佐賀県民に親しまれ、昭和40年(1965)5月、県鳥に指定された。生息の起源については、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に佐賀藩祖鍋島直茂らが持ち帰ったなどという人為的移設説や自然飛来説などがある。 繁殖期は1月から6月ごろまで、巣作りは早いもので12月に始まり高木や電柱上に営巣し、送電に支障をきたすこともある。無数の枯枝を組み合わせて作られた球形の大きな巣内に2月から3月ごろにかけて5~6個を産卵し雌が抱卵して、約20日ぐらいで孵化(ふか)し、4~5月頃を中心にヒナは巣立をする。
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大隈重信旧宅
重要文化財
佐賀城下の東部にあって東西に通るいわゆる「佐賀の七小路」は北から順に「馬責(うません)馬場・通り・椎・花房・中の橋・枳(げす)・会所」の各小路で、佐賀藩の中流クラスの石高の武士が住いしたところである。大隈重信の旧宅はこの一番南の会所小路の南側にある敷地約315坪(1039.5平方メートル)、建坪約45坪(148.5平方メートル)の佐賀地方に多い「コ」の字形をしたかぎ屋の一部平屋、一部2階造りの家である。2階は重信の勉強のために母親が建て増したものといわれている。 大隈重信は、天保(てんぽう)9年(1838)この家で父大隈信保、母三井子の長男として生まれた。父信保は鉄砲組頭(くみがしら)などをつとめた人で、天保3年(1832)にこの家を買得した。重信は誕生以来ここを住居とし、幕末動乱期国事(こくじ)に奔走(ほんそう)し、明治元年(1867)ここを去って東京へ移った。 旧宅は建築当初からすると2間ばかり北にひかれ、玄関に改造のあとがあり、また台所は撤去されて管理部屋が付設されるなど、少し改造されているが、座敷・次の問・居問等の主要部はよく残っている。また、昭和43年(1968)に解体修理されている。 現在、佐賀城下の武家屋敷は屋敷の門をのぞいてはほとんど残っていない。その意味からも大隈重信旧宅は佐賀城下の一般的な武家屋敷のありようを示すものとして貴重なものといえる。
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有明海漁撈用具
重要文化財
有明海は、潮流の干満の差が著しく、干潮時には広大な干潟を形成する。この干潟は、河川の運搬した微粒の有機物を多く含んだ泥土が厚く堆積したものである。この干潟に生息している魚介類はムツゴロウをはじめ、干潟独特の生物が多い。従って、これらの魚介類を捕獲するための漁法、漁撈用具は生態に対応した捕獲に最適な機能をもつ特有なものであるが、その構造は極めて単純である。 有明海の漁撈は、干潟を中心とする漁撈・沖合の漁撈・養殖業の三種に分けられる。古くから干潟漁法、その他特殊な漁法が行われてきたが、土砂の堆積や干拓の進捗によって急激な変貌を余儀なくされたため、古い用具類は滅失寸前であった。 収集・保存された漁撈用具は、157種293点にのぼる。干潟漁撈具66、漁網類88、貝採取用具33、舟道具31、保存加工用具25、服装9、その他48となっている。これらの漁撈具の中には、漁法の変遷等によって、既に禁止された漁具類もあり、有明海の漁撈を理解する上で、貴重な資料となっている。
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太刀 銘康(以下不明)伝康光 一口
重要文化財
この太刀は「康」以下不明であるが、備前国(岡山県東部)長船(おさふね)の康光の作とされている。この期の備前刀を一般に「応永備前(おうえいびぜん)」と呼び、盛光(もりみつ)・康光・則光(のりみつ)を三光(さんみつ)と呼んでいる。現在康光の作刀で「応永二二年二月日」(1415)の紀年銘が国の重要文化財に指定されている。この太刀もこの頃の作と思われる。佐賀市の与賀神社に奉納されているもので、県内では数少ない名刀のひとつである。 法量 長さ72.3センチメートル。 反り 2.4センチメートル。 形状:鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)、細樋(ほそひ)が鎬にそってある。 鍛(きたえ):板目肌(いためはだ)。 刃文(はもん):匂本位(においほんい)の丁字乱れで、下の方は乱れが小さく、上にいくほど大きくなっている。また、腰の開いた乱れが交わり、映(うつ)り(地に白く影のようなものが立つ)が現われる。 帽子:乱れこんで小丸に返る。 中心(なかご):生(う)ぶ。栗尻(くりじり)、鑢(やすり)目勝手下り。目釘穴1個。
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与賀神社三の鳥居及び石橋 二基
重要文化財
与賀神社三の鳥居は慶長8年(1603)佐賀藩祖鍋島直茂の北方藤女(陽泰院)の奉献になるもので、高さ3.90メートル、笠木の長さ5.65メートルである。肥前鳥居は、室町時代の末期ごろに肥前国を中心として造立された石造文化の一つで、江戸時代初期に最盛期を迎えている。 その形式は、笠木と島木が一体化し、先端は流線形を呈しており、笠木・貫・柱が3本継で、柱の下部は張り出して生け込みとなっているなど、特色のある構造を有している。 与賀神社の烏居は、造立の古いものの一つとして、また、最も典型的なものの一例として価値が高いものである。 石橋1基は、長さ10.5メートル、幅3.15メートル、川床までの高さは中央部で1.78メートルで、両側に高さ56センチメートルの欄干があり、10個の擬宝珠がついている。ゆるい曲線をもつ反り橋で橋脚は3本併立の6列である。擬宝珠の銅板に 肥前州与賀荘 正一位与止日女大明神 …… 慶長十一年丙午南呂彼岸日 鍋島加賀守豊臣朝臣直茂造立之 の線刻銘があり、江戸時代初期の石橋として県内で唯一のものである。
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佐賀城鯱の門及び続櫓 一棟
重要文化財
佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中城を鍋島直茂(なおしげ)・勝茂(かつしげ)父子によって、慶長13年(1607)から慶長16年までの佐賀城総普請によって整備拡張されたものである。 この鯱の門は、天保6年(1835)から始まる本丸再建に際し、本丸の門として天保9年(1838)に完成したものである。 本来、城門は戦時の防備に重きを置き計画されているが、建築年代が江戸時代後期でもあり、建物があるべき防備の役割は形骸化が進み、装飾的要素が前面に出てくる。 鯱の門周辺の防備は、門の南北に高石垣が連なり、本来、門と天守台までの高石垣の中ほどから、現在は削平されてしまっているが、北方に向かって土塁が設けられていた。 「櫓(やぐら)」の本来の意味は、「矢倉(やぐら)」=武器庫であり、この櫓の発展形態が天守である。櫓門とは、通用する門構えに2階を上げた形式をいう。 鯱の門に附属している続櫓は、石垣天端いっぱいには建てられておらず、「犬走り」がめぐる。1階部分の左右には、床張りの門衛所があり、また、門内北側には番所が接続されるなど、近世城郭の初期には見られない機能的な形態となっている。 建物は二重二階の櫓門に一重二階の続櫓が配されている。櫓門の正面の桁行は5間(約11.9メートル)、礎石上から棟瓦上まで約12.5メートルを測る。 この門は明治7年(1874)の佐賀の役でも弾雨にさらされ、現在でも弾痕が観察できる。その後、佐賀商業学校の門として同校のシンボルとなっていた。明治以降幾度かの小修理がなされたが、建築から120余年の昭和36年(1961)に、大修理が行われた。 この昭和の大修理の際、部材に大工の氏名や年代の墨書が発見され、この門が移設や転用材を用いたものではなく、本丸再建に伴う新建築物であることがわかった。 鯱は、北方のものが、高さ1.70メートル、重量190キログラム、南方のものが高さ1.75メートル、重量210キログラム、製作者「冶工谷口清左衛門」(刻銘)とあった。谷口家は、佐賀藩の御用鋳物師であり、幕末にはわが国で最初の「反射炉」建設及び運営に活躍した。 鯱の門は、この城門に続く石垣とともに往時の佐賀城をしのぶにたる佐賀城の建物遺構として貴重である。
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与賀神社楼門 一棟
重要文化財
与賀神社楼門は、構造形式から見ると、室町時代前後のものと推定される。『藤龍家譜』によれば、「文明14年(1428)大宰少弐政資が、父教頼(のりより)の旧館を改修して与賀城を築き、与賀神社を城の鬼門の鎮守となし」との記載があり、それと推考される。 その後、文禄5年(1596)大修理を行い、寛文3年(1663)宝暦年間や、幕末及び明治・大正にも小修理が行われた。 最初は柿葺(こけらぶき)であったが、後に銅葺に改められた。終戦後腐朽し建物全体が弛緩したので、昭和25年(1950)11月、文化財保護委貝会の指導を受けて、全部解体し、後世改修していた部分は旧状に復し、根本修理が実施され、同27年(1952)5月に完成した。 この楼門は正面3間、側面2間、白然石の礎石に円柱を建て、中央通りの床を石敷とし、なかに両開框組板戸を設けている。正面の両端間には組格子窓、両側面各間と後面両端間は、板嵌である。 初層の斗栱(ときょう)は四方廻縁(まわりえん)の腰組となって、縁廻をうけている。縁四方には和様の勾欄(こうらん)をめぐらしている。斗栱は廻縁下は和様の連三斗、上層は和様の出組で絵様拳鼻がついている。軒廻は地種、飛檐棰(ひえんたるき)とも疎棰(そたるき)に配置して二軒となって、頭貫鼻、墓股等随所に絵模様彫刻が使われている。 この楼門は軸部、軒廻、斗栱等の大部分の化粧材を丹塗(にぬり)とし、格子組は黒塗、木口は黄土塗である。全体の様式は和様の手法によっているが、細部には唐様の手法も使われている。佐賀県下では現存する最古級の木造建築物であって、極めて貴重な遺構といえる。