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[旧佐賀市][ 彫像]は4件登録されています。
旧佐賀市 彫像
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梅林庵楠公父子の像と義祭同盟の発起
寛文2年(1662)、佐賀藩士だった深江信渓は、楠木正成・正行父子の忠孝を鑑として広く顕彰すべきと発起し、父子が桜井の駅での別れの時の鎧姿の像を京都の仏師に刻ませた。 翌3年、完成した父子像を北原・永明寺(大和町・廃寺)に安置し祭祀した。父子を祀ったのはわが国で初めてであった。 天明(1781〜88)の頃高傳寺に置かれ、文化13年(1816)、梅林庵に移された。これを知った「日本一君論」を主唱する国学者枝吉神陽が、嘉永3年(1850)、楠公父子の祭祀を同志に呼びかけ、尊王派の同盟である義祭同盟が結成された。呼応した同志38名が楠公が戦死した忌日の5月25日に梅林庵に集まり、深江信渓の子孫・俊助が祭主で初回(第1回)の楠公祭が行われた。これが佐賀藩勤皇運動の中心となった義祭同盟である。枝吉神陽はじめ、枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)、木原義四郎(隆忠)らが参加している。その後、毎年5月25日に行われ、江藤又藏(新平)、中野眞七郎(方藏)、大隈八太郎(重信)、久米丈太郎(邦武)、鍋島茂眞、鍋島直嵩らも加わっている。 安政(1854〜59)になり、梅林庵の父子像は、城下の龍造寺八幡宮境内に設けられた社殿に移され、楠社として、ここで楠公祭が行われるようになった。
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本庄神社楼門の猿
慶長17年(1612)8月鍋島直茂が本荘の宮の社殿を新に造営すべく脊振山や北山から桧材を出させ、国内の名匠を集めて、造営させた。特に楼門は当時名匠の聞えある多久田の番匠(詫田の万乗)の作だと伝えられている。 この楼門の上に置かれた2匹の木彫の猿はさながら生けるがごとく、見る者がほめぬ者はなかった。しかるにこの宮が新に造営されて以来、不思議な事が続いて起った。それは付近の田畑が荒される事と、店先の菓子や果物が無くなる事であった。 村の人々は毎日不安の夜を送っていた。しかるにある月夜の事、黒い物が二つ畑を荒らしているのを見つけた。さてはてっきり此奴の仕業であったかと、彼をとっつかまえようと追い廻したが、なかなかすばしこくてどうしても捕える事が出来ない。遂に黒い二つのものは、本荘の宮の方に逃げて行くので、なおも勇気を出して追って行くと、楼門の柱をスルスルとよじ登った。 そこで側によってよくよく見れば何とそれは彫刻した2匹の猿公であった。そこで氏子連中が集って話合いの上、直茂に伝えて眼をつぶして猿公を後手に縛り上げた。それからは猿公も仕方なく梁の上におとなしく居るようになったという。これが楼門の上に居る2匹の後手の猿の話である。また、この楼門は桃山末期の作であると伝えられ趣きがある。 この宮の太鼓橋その他は、与賀神社、牛島天満宮など同一の形式を備えており同時代の神社構築の様式を知る上に良い資料である。 惜しいことに与賀神社で見るような太鼓橋両側の河中の燈籠が明治時代まではあった筈なのに今は無くなっていることである。
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釈迦三尊像
釈迦三尊像 宗仁作 三躯 【作 者】大仏師宗仁(林長右衛門尉国次) 【各像高】(釈迦)37.6㎝ (文殊)47.0㎝ (普賢)46.5㎝ 【制作年】江戸時代 承応4年(1655)3月 【由 来】 宗智寺は佐賀藩の藩祖とされる鍋島直茂を開基とする曹洞宗の寺院。 この仏像と同様の釈迦三尊像が鍋島家菩提寺の高伝寺にあり、毎年4月の一時期のみ開帳される 秘仏となっている。ともに初代藩主の勝茂の依頼により承応4年(1655)に京の大仏師宗仁(林長右衛門尉国次)が制作したものであることが銘文などから知られる。高伝寺の仏像は赤栴檀(あかせんだん)でつくられることに対して、宗智寺のは榧(かや)でつくられていてやや小さく、試し彫りとの伝承がある。 両像とも父直茂と母の菩提を弔うためにつくられたもので、制作の前年が直茂の37回忌にあた るので、そのことが契機になったと推測される。 宗仁は鎌倉時代の名匠運慶の子孫を自称している。将軍家ゆかりの上野寛永寺護国院や伊達氏ゆかりの仙台の輸王寺に作品が残っていて、有力な仏師であったことがわかる。宗仁は勝茂の位牌も作っているが、二匹の龍をあしらい七宝金具を用いた特大の立派なものである。 白檀などの香り高く、木肌のきれいな木材に精密な彫刻を施した仏像をとくに檀像というが、この仏像もその一種で、本体と台座、光背すべてに榧を用いていて美しく、今でもかすかに甘い芳香を漂わせている。 細部にまで細やかに彫刻した入念の作で、江戸時代彫刻の中でも抜きんでた出来栄えである。
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竜樹菩薩
むかし有明海が鍋島の辺まで入江になっていたころ、海中から五色の光芒が立ちのぼるのを見て漁民たちが引きあげてみたら、巨大な木彫りの仏像であったので、驚いて現在の処にうつし祀ったという。なお、この仏像が余りに大きく容易にあがらなかったので、漁民たちが集まって笛をふき鐘をたたいて、一斉にかけ声をかけて引きあげた。この時のはやし踊りが蛎久浮立のおこりと言われている。またこの仏が竜樹菩薩像だと教えてくれたのは弘法大師だという。