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[旧佐賀市][ 無形民俗文化財]は5件登録されています。
旧佐賀市 無形民俗文化財
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見島のカセドリ行事
重要無形民俗文化財
佐賀市蓮池町見島で、毎年2月の第2土曜日(元は2月14日)の夜に催されている民俗行事である。見島に鎮座する熊野神社の拝殿に、莚(むしろ)が敷きつめられ、数名の長老が羽織姿で座る。 「カセドリ」は青年2名で、藁で編まれたみのと腰みのを着け、黒脚絆に白足袋でわらじをはく。顔と頭には白布を巻いて、目、鼻、口だけを出し、鉢巻をしめ甚八笠をかぶる。手には黒手甲をはめ、長さ1.7メートル余りの竹を1本持つ。竹は一方の端のところを2か所縄でしばり、3分の2くらいの長さは細く割られている。 烏居のところに待機していたカセドリは、準備が終ると、竹を脇にかかえこみ、竹を打ち鳴らしながら拝殿に走りこむ。両膝をつき体を前にかがめて、竹の割れている方を床面に小刻みに激しく打ちつけ、ガチャガチャと打ち鳴らす。盃がカセドリの前におかれ酒が注がれると、そのままの姿で飲みほし、また、同じ所作を続ける。 謡が始まると、カセドリはそのままの姿勢で休み、終ると再び同じ所作を繰り返す。謡が三番はいって、最後の所作が終ると、竹を打ち鳴らしつつ鳥居のところまでかけ戻る。熊野神社の行事が終わると、提灯2名・天狗面2名・御幣1名・カセドリ2名・かごにないの少年数名の順で、各家々を廻る。カセドリは、竹を打ち鳴らしながら家々の部屋にとび込み、膝をつき体を曲げて畳に竹を打ちつけて激しく打ち鳴らす。茶が1杯ずつすすめられ、終わると竹を打ち鳴らしつつ走り出る。かごにないが切餅を貰い受けて、その家を去り、次の家に向かう。 各家を廻り終ると、熊野神社に集って、各家から貰い受けた餅を全員で食べながら、歓談するという。この行事は、以前は旧暦1月14日に行われていた小正月の行事であって、県内では他に伝承されていない小正月における神人訪問の伝統行事として注目される。
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白鬚神社の田楽
重要無形民俗文化財
白鬚神社は、近江の国白髪大明神の分霊を勧請した古社と伝えられる。勧請に奉仕した19の家があって、いずれも姓に丸字をつけているので、丸持の家といわれ、丸祭と呼ぶ古式の祭りが伝承されている。毎年10月18、19日に行われる秋季例祭に、川久保集落の人たちによって奉納される舞楽がすなわち田楽である。 白髪神社における田楽の史料上の初見は、寛文5年(1665)に編さんされた『肥前古跡縁起』が最初で、ついで 享保19年(1734)建設の石鳥居に「時奏村田楽」とあるくらいで乏しい。 田楽の起源は平安時代、田植のおりに笛や鼓などを奏しながら歌い舞ったものが、次第に形を整えて専業化し、神社仏閣などに奉奏するようになったものと考えられる。 白鬚神社の田楽は神社境内に設けられた玉垣(たまがき)(青竹で組んだ囲い)の中で行われる。 当日の早朝、田楽衆はみそぎをして身を清め、午前11時頃に神社社務所に集合し、衣裳を着つけ、化粧などの準備をする。ササラツキ4名(オモ2名、ワキ2名)は、美しく女装した少年で、顔は化粧をして点彩をほどこし、袖と裾に波と兎の紋様のある青地の着物に、黒の繻子帯(しゅすおび)を前に結んでその両端を長く垂らす。後頭部に女性のかもじを下げ、大きな花笠をかぶる。花笠は割竹を編んで紙を貼ったもので、造花をつけた竹へご数10本を突き刺している。この花笠の上に古鏡二面をとりつけた女帯を二筋ずつ垂らす。手にササラ(編木)を持つ。カケウチ(2名)は腰の前に太鼓を吊し背中に金銀で飾った木刀を負った若者による。ハナカタメ(1名)は鉢巻きを締めて手に造花をつけた棒と扇を持った幼児で、スッテンテン(1名)は金色の立烏帽子(たてえぼし)をかぶり手に小鼓(こつづみ)と扇を持つ。笛役(7名)は大人で、世襲で、うち熟練者1名が頭取(とうどり)として全体の指揮にあたる。 定刻になると行列を整えて、神社の鳥居まで「道行(みちゆき)」を行う。このとき、ハナカタメとスッテンテンは付き添いの男性に肩車をされて移動する。行列が鳥居にかかると、「鳥居(とりい)がかり」の曲が奏され、この後一同は境内に入り、社殿前に青竹で作られた玉垣内に入り、それぞれ定められた位置で、まず、「三三九度(さんさんくど)」が演じられる。カケウチは左右に相対して跪坐(きざ)し、ときどき掛声を発して太鼓を打つ。ササラツキのうちオモ2名が前方に進み出て相対して立ち、囃子につれてササラをつき、わずかに位置をかえる緩慢な所作が行われる。のち、ササラを置いて扇をひらき、緩やかな所作を行うと、オモにかわってワキ2名が進み出て、しばらくオモと同じ所作を行う。最後にスッテンテンとハナカタメが並んで進み、一周してもとの位置に戻って座る。ついで、「つきさし」「さざれすくい」「四方立(しほうだち)」「おさえばち」「むこうにみあし」といった曲が1時間30分余りをかけて演じられる。一部カケウチの活発な動きはあるものの、全体としてはゆっくりとした曲と動きである。 佐賀県下に残る唯一の田楽である。鼓打ちの稚児(ちご)をスッテンテン(シテテンの変化)と呼ぶなど田楽の古い姿を伝えている。また、子どもたちが主体なので稚児田楽ともいわれ、演者の衣装と化粧にも特色がある。特にササラツキは少年が女装をするが、花笠は他の田楽に見られない異風なもので、風流の影響が考えられる。演者は田楽奉納の期間中はみそぎをし魚肉を遠ざけ精進をしなければならない。もし、精進を破ったばあいは、演舞中に気分が悪くなるといわれ、改めてみそぎをし直す。地区に定着する中で独自の展開を見せ、地域的特色も顕著である。芸能の変遷の過程を知る上で重要であり、九州に残る希少な田楽である。
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高木八幡ねじり浮立
重要無形民俗文化財
「ねじり浮立は」、以前は11月15目の高木八幡宮秋祭り(お供日)に奉納されていたが、現在は11月中旬の日曜日に実施している。構成は、天衝舞・大太鼓・鉦・モリャーシ(締太鼓)・笛・お謡いなどからなり、鉦打ち・モリャーシがそれぞれ2列になって笛に合わせて「道行」で神前まで進み、神前で舞う祓え=本囃子と「エイヤー」と「まくり」が奉納される。天衝舞は大太鼓や笛に合わせて勇壮に舞う。 この浮立の呼称は、青壮年男子が掛け声とともに、上体をねじらせて鉦を打ち、モリャーシの子どもたちも鉦打ちと同様の所作をして小鼓を打つことから「ねじり浮立」と呼ばれるようになった。また、鉦打ち・モリャーシともに頭の上に「旗さし」を立て、女物の衣装・稚児衣装をまとうところは、勇壮な中にも派手さの混じった舞囃子である。 高木八幡ねじり浮立は、佐賀平野に広く分布する玄蕃一流浮立(天衝舞浮立)で、ねじり浮立という名称の特徴をよく伝えている。高木瀬地区では唯一の浮立であり、貴重である。
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浮立玄蕃一流
重要無形民俗文化財
弘治2年(1556)5月、未曾有の旱魃(かんばつ)を憂い掘江大明神に雨乞祈願のため、神職山本玄蕃がこの浮立を舞ったので、「玄蕃一流(げんばいちりゅう)」というようになったと伝えられる。 玄蕃は自分の年齢47歳にちなみ、大もらし20、小もらし27を以って囃方(ばやしかた)とした。また、カサボコ数本はすべて女性の着物と帯を用いたとされる。 『鍋島直正公伝』に、由来久しき歴史を持つ古い雅の歌舞は華奢のものではないと言うので幕末鍋島藩の大窮乏時代非常時倹約令が出た時も他の歌舞、遊戯は一切停止となったが村々の浮立だけは興業を許して取締まるだけにした。 とある。現在では掘江神社の氏子草場、東神野、西神野の3か町が交替で毎年11月3日の祭典(供日(くんち))に奉納する習わしとなっている。 浮立の構成はほぼ次の通りである。(人数は概数) 天衝舞1、大太鼓打ち3、もりゃーし(締太鼓)20、鉦打ち20、笛方6、謡方3~5。この外宰領、世話人、供人が参加する。天衝舞は、日・月と雲龍を画いた直径1メートルくらいの紙張の前立を頭に被り、たっつけ袴をはき、腰にゴザをつけている。 「道行き」で、神社まで向かい、拝殿前で「本囃子」「まくい」が奉納される。天衝舞人は、太鼓の撥(ばち)を両手に大太鼓を打ち謡につれて舞い踊る。 天衝舞浮立ともいい、佐賀平野部を中心に天山山地から有明海沿岸まで広く分布している。
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小松の浮立
重要無形民俗文化財
天衝舞浮立は、佐賀市を中心に伝承されている芸能で、天衝舞、天月舞、天竺舞あるいは玄蕃一流浮立又は浮立大神楽などと呼ばれており、小松浮立も天衝舞浮立のひとつである。 この芸能の起源伝承は各地異なって一定しておらず、小松浮立は平氏の落人伝説にその起源をおいている。 平清盛が福原に新都を築いたとき、何度島を築いても波のため流されたので、平家の公達1人が人柱に立ち、同時に浮立を演じて完成を祈願し無事に完成することができた。島の名に因んで、この浮立を築島浮立という。平家滅亡後、この地に落ちのびて来た平家の残党が、小松殿平重盛を追慕して、集落名も「小松」とし、この浮立を小松神社に奉納したのが始まりという。 小松浮立が他の天衝舞浮立と異なっている点は、笛が用いられないこと、ゼイが用いられることである。笛を用いない点については、平敦盛の「青葉の笛」の故事に基づき、これを忌むと伝えている。