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川副町 その他
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龍造寺隆信の画像と陣太鼓
龍造寺隆信は、織田信長・上杉謙信・武田信玄・大友宗麟・島津貴久等とともに戦国時代同時期の武将。6歳で出家、17歳で還俗し水ヶ江城主になる。22歳の時筑後一木村に退去。24歳の時2回目の水ヶ江城奪還を企てる。海路からアカシドウ(燈堂)に上陸し、鹿江の威徳寺に入る。ここで川副・与賀郷の将士三千余名の協力を得て挙兵した。 威徳寺には寺宝として、龍造寺隆信の法体の肖像画と隆信が使用したといわれる「陣太鼓」がある。
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正傅寺の半鐘
天和元年(1681年)建立された正傅寺に伝わる半鐘は、天和3年(1683年)に製作されたもの。植木善兵衛政往の作であり、銘文の撰は佐賀藩の儒学者として有名な石田一鼎である。 銘文には、大詫間の成立の経緯、大潮や風水害との苦闘など開拓の歴史が記してある。また、この釣鐘を鳴らし経を唱えて、慶安3年(1650年)の災害による死者の霊を弔ったことも刻まれている。
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御髪信仰
御髪神は一般にオンガンサンなどとよばれ、その信仰は有明海沿岸に広く分布している。なかでも、有明海の竹崎沖合に浮かぶ岩礁には御髪社が奉祠され、毎年旧暦6月19日には沖ノ島詣りの漁船が繰り込む。この沖ノ島には現在灯台が立てられ、海上交通の要となっているが、ここは古くから有明海を航行する船舶の目標となっていたようで、この御髪社は海上安全の守護神ともいわれる。 また、有明海沿岸には、お島という女性の伝説も多い。昔、大旱魃の折に難渋する農民をみたお島は、雨乞い祈願のため、その身を有明海に投じた。その死体は沖ノ島に流れ着き、願いもかなって慈雨をもたらしたというものである。こうしたことから沖ノ島は古くから神聖な島であると考えられていたことがわかる。沖ノ島詣りに参加する地区は、漁村部のみにとどまらず、江北町などの内陸部の農村部にもあり、単に海神のみならず豊作祈願や雨乞い祈願の水神として信仰されている。 早津江志賀神社境内にも御髪大明神の石祠があるが、大詫間にはオンガンサンとよばれる神屋敷があった。大詫間オンガンサンの由来によると、それまでの打ち続く高潮に苦しんだ島民は堤防を築き、寛政5年、本土居に沖ノ島大明神を勧請し海辺鎮護の守り神としたのに始まるという。その後も本土居は潮止めの役割を果たし、明治7年7月の戌年潮(死者十数名)、大正3年8月大潮などでも大詫間島は難を免れることができた。明治26年頃の大旱魃には、このオンガンサンに雨乞い祈願のための浮立を奉納し御利益を享受したという。御神体は明治43年松枝神社に移され、この神屋敷は昭和47年圃場整備事業に伴い、撤去された。
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筑紫箏
筑紫箏の起源については定かでないが、筑後の善導寺において形作られ、この寺に仮住した憎賢順によって、大成されたことが一般に認められている。賢順についても諸説あるが、周防国大内氏の家匠宮部家に生まれ、天文年中、7歳の時、善導寺で得度出家した。永禄年中(1558−69)13歳の時、明人鄭家定から琴瑟箏の音曲を学んだといわれる。この後、寺に伝わる筑紫箏を学んだとか、あるいは雅楽と俗箏を基にして、秘曲を編んだとか伝えられるが、おそらく後者の道をふんで、筑紫箏を大成したと思われる。こうして一時、大友義鎭の知遇を得るが、やがて戦いを逃れて川副郷南里の正定寺に移った。元亀元年(1570) の頃という。ここでは自ら筑紫箏を作り、これを弾じ、あるいは門下を集めてその養成に努めた。38歳のとき、多久の天叟安順に招かれて多久邑に移り住み、還俗して諸田姓を名のった。その没年も種々伝えられ、文禄2年(1593)60歳で没したとか、元和9年(1623)、または寛永13年(1636)90歳で没したとかいわれる。賢順の門下の中で秀でたものに、僧法水、玄恕がある。法水は自ら一派をなし、京の八橋検校に伝えたという。もっとも検校は玄恕の教えも受けたようである。玄恕は正定寺第16世団誉上人の門下中、龍・應・典・頂の四員(「注」 龍誉・應誉・典誉・頂誉である。)の1人に数えられる逸材であり経蓮社典誉と称号した。賢順に箏を習い、その調べは高く、至妙の処を得て、多くの弟子が集まった。慶長年間上洛して知恩院法主にあい、その秘曲を演奏して大いに賞せられ、後陽成天皇に披露して宮中にこれを伝えたという。のち、諌早の桂岩寺(慶厳寺)に移り住職となる。寛文2年(1662)または慶安2年(1649)42歳で没した。このころ筑紫箏は法要に用いられて、晴雨を祈り、神明仏陀を祀るに当たって弾せられたということである。玄恕はその奥旨を超誉に伝えた。超誉は正定寺第21世で、九蓮社と称し徳応ともいう。寛永16年(1639)13歳で剃髪し同18年、筑紫箏の伝授を受けた。その後、大運寺、浄円寺を経て浄林寺の開基となったが、正徳5年(1715)89歳で没した。法要のための声明音楽が衰えようとするのを嘆いて、僧徒の勉励を勧めて、その振興に功があった。その後、超誉の孫弟子の中に、与賀浄土寺に厭誉が出て、筑紫箏はその流れを伝えていく。厭誉は宝暦8年(1758)に没した。かくして筑紫箏は、川副郷では正定寺を中心として一時、大いに栄えたことがうかがえる。その後、変遷しながら現代に伝承されている。今日の伝承者井上ミナ氏によると「筑紫箏は楽箏(雅楽)と俗箏(生田流・山田流)との分岐点に位し、今日の俗箏諸流の基を開いた優雅な風格をそなえる、歴史上極めて高い価値」を有するものである。