筑紫箏

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筑紫箏

■所在地佐賀市川副町
■登録ID2046

 筑紫箏の起源については定かでないが、筑後の善導寺において形作られ、この寺に仮住した憎賢順によって、大成されたことが一般に認められている。賢順についても諸説あるが、周防国大内氏の家匠宮部家に生まれ、天文年中、7歳の時、善導寺で得度出家した。永禄年中(1558−69)13歳の時、明人鄭家定から琴瑟箏の音曲を学んだといわれる。この後、寺に伝わる筑紫箏を学んだとか、あるいは雅楽と俗箏を基にして、秘曲を編んだとか伝えられるが、おそらく後者の道をふんで、筑紫箏を大成したと思われる。こうして一時、大友義鎭の知遇を得るが、やがて戦いを逃れて川副郷南里の正定寺に移った。元亀元年(1570) の頃という。ここでは自ら筑紫箏を作り、これを弾じ、あるいは門下を集めてその養成に努めた。38歳のとき、多久の天叟安順に招かれて多久邑に移り住み、還俗して諸田姓を名のった。その没年も種々伝えられ、文禄2年(1593)60歳で没したとか、元和9年(1623)、または寛永13年(1636)90歳で没したとかいわれる。賢順の門下の中で秀でたものに、僧法水、玄恕がある。法水は自ら一派をなし、京の八橋検校に伝えたという。もっとも検校は玄恕の教えも受けたようである。玄恕は正定寺第16世団誉上人の門下中、龍・應・典・頂の四員(「注」 龍誉・應誉・典誉・頂誉である。)の1人に数えられる逸材であり経蓮社典誉と称号した。賢順に箏を習い、その調べは高く、至妙の処を得て、多くの弟子が集まった。慶長年間上洛して知恩院法主にあい、その秘曲を演奏して大いに賞せられ、後陽成天皇に披露して宮中にこれを伝えたという。のち、諌早の桂岩寺(慶厳寺)に移り住職となる。寛文2年(1662)または慶安2年(1649)42歳で没した。このころ筑紫箏は法要に用いられて、晴雨を祈り、神明仏陀を祀るに当たって弾せられたということである。玄恕はその奥旨を超誉に伝えた。超誉は正定寺第21世で、九蓮社と称し徳応ともいう。寛永16年(1639)13歳で剃髪し同18年、筑紫箏の伝授を受けた。その後、大運寺、浄円寺を経て浄林寺の開基となったが、正徳5年(1715)89歳で没した。法要のための声明音楽が衰えようとするのを嘆いて、僧徒の勉励を勧めて、その振興に功があった。その後、超誉の孫弟子の中に、与賀浄土寺に厭誉が出て、筑紫箏はその流れを伝えていく。厭誉は宝暦8年(1758)に没した。かくして筑紫箏は、川副郷では正定寺を中心として一時、大いに栄えたことがうかがえる。その後、変遷しながら現代に伝承されている。今日の伝承者井上ミナ氏によると「筑紫箏は楽箏(雅楽)と俗箏(生田流・山田流)との分岐点に位し、今日の俗箏諸流の基を開いた優雅な風格をそなえる、歴史上極めて高い価値」を有するものである。

出典:川副町誌P.934〜P.936