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[東与賀町][ 寺]は16件登録されています。
東与賀町 寺
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潮音寺の跡
鍛冶屋の北西端に、昔の古刹(こさつ)潮音寺の跡がある。『九州治乱記』によると天文2年(1533)に龍造寺隆信が、若宮八幡宮(上町)の神宣によって、飯盛城(本庄町上飯盛)の高木鑑房を攻略した時の陣所跡である。『佐賀県史』には次のような記録がある。 「佐嘉郡実久村 海雲山 潮音寺 一、當寺儀は元来慶誾寺末寺に有之候処年来及大破候得共余多く末寺にて本寺よりも修復等不及に候に付従高傅寺修復等相加置候間高傅寺末寺に被仰付度く高傅寺へ従慶誾寺相願候処被達御年に天明七年末七月願之通被仰付候事」 なお、この潮音寺に所属する田屋敷は3反9畝24歩、地米も2石7斗3升4合と記録されてあるので、全盛の頃は相当に大きい寺院であったことが想像され、現在も「万部経」が秘蔵されている。こうして昔を誇った潮音寺も、戦後の農地解放によって、免田もすべては小作人に渡り、現在では一宇の御堂と数十基の墓地のみが淋しく残されている。実に人の世は諸行無常、色移り香も失せて滔々と鳴りし潮の音も、既に跡絶えて聞こうにも聞けない今日この頃である。
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円光寺
今町の最南端に古刹(こさつ)の円光寺がある。御本尊は阿弥陀如来で過去帳の書き初めは、寛文12子年とある。寺院の周囲は深い堀に囲まれて、いわゆる「城づくり」の寺院で有名である。歴代12世の五十嵐卓道はその子貫道と私塾を創始したり、開基の流教は布教と共にこの付近の治水事業にも努力した。その功績はこの寺院の南方約500mの所に、左衛門井樋の遺跡がありこれを物語っている。
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光徳寺
田中村落の最北端に、浄土真宗本願寺に属する古刹(こさつ)の光徳寺がある。山号を冨永山と称し開基は了玄法師で、創立は慶長19年正月26日(1614)である。本堂は先に火災に遭って全焼したが、大正14年庫裡と共に再建された。光徳寺住職は「松橋」の姓であるが、その沿革と共に「仏閣」光徳寺の欄に記述している。
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長泉寺
【名称(山号)】願王山 長泉寺 【宗派】曹洞宗 【本寺】慶誾寺(佐賀市本庄町鹿の子) 【創立年代】慶誾4世禅室栄林大和尚(寛永5年(1628)11月22日入寂)の開山になるもので、慶誾寺の末寺として創立された。 【開基】長泉道寿居士 佐賀市東与賀町実久の村岡道栄氏の先祖、名は不詳(永禄11年(1568)2月不詳日に入寂) 【沿革】 本尊釈迦牟尼仏・坐像の木製は、川副町村岡正己の祖父平七の寄進によるものである。建物は記録がないので判明しないが、前住職の説によれば、一度火災にあい焼失したらしい。 【その他】 立野にはこの長泉寺の外に、光福寺・正善庵・薬師寺・浄光院の四か寺があったが、後には長泉寺の番僧が行持していた。遂には廃寺となり竹林として名残を留めていたが、先の土地改良事業で田地となり、発掘された遺骨は火葬に付し墓石と倶に長泉寺に無縁仏として手厚く葬られた。また浄光院は散在していた墓石をその一角に墓寄せをして、「浄光院精魂之塔」の名称で、米国在住の秀島泰蓮が昭和42年(1967)5月に建立した。 檀徒戸数65戸。 【備考】 肥前の国吉包(よしかね)は当時の名刀鍛冶職である。江藤新平の愛用の刀の作者であって、その墓地がある。
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龍水院
【名称(山号)】霊峰山 龍水院 【宗派】曹洞宗 【本寺】佐賀市本庄町高伝寺 【創立年代】寛永5年(1628)高伝寺の末寺として創立 【開基】高伝寺7世不鐵桂文大和尚(寛永13年12月23日入寂) 【沿革】 御本尊釈迦牟尼仏木造、本堂は昭和4年4月、搦村山田和吉独り寄進、龍水院中興開基 【宝物・文化財・世代墓所等について】 昭和55年中興大機徳仙大和尚50年忌(昭和6年死去)を勤修に際し歴代住職の墓地を発掘整理し新築した。 【檀徒戸数】70戸 【備考】 この寺院の門前参道の端に六地蔵の塔が2本建っている。この六尊地蔵の意味するものは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天山・修羅を表現しており、人間を六つの迷いから救うものと言われる。近くに庚申塔・夜泣地蔵・一本立地蔵等がある。 本寺に所蔵する「大般若経六百巻」は、重要品で、佐賀市多布施町宗知寺の大般若経であったらしい。鉄眼版の木版で、一巻一巻を書いてある。過去帳も2冊保管されてある。
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威徳寺
大応山威徳寺の由来に関して佐賀市本庄町鹿子御厨一八は次のように語った。 東与賀町実久の龍水院の東南部に墓地が残っている。これは高伝寺(佐賀市本庄町高柳鍋島家の菩提寺)の末寺である。佐賀県立図書館の記録をみても、開山以来の住職・年数廃寺等の時期は不明とあり、佐賀県下245佐賀郡下30ある曹洞禅寺の一つである。 実久は鎌倉時代の海岸線で、正保図絵に初めて名が出ているが、万延元年の改めの郷村帳にも出ている。威徳寺の墓地はほとんど鹿子下の御厨一族(鹿子上に分家3戸)の墓である。桓武平氏の御厨は、伊勢の松坂(御厨神社という県社格の氏神)で、皇太神宮の司厨部を司った荘園御料地よりの収穫物供物の収受配分を司った。その一族は長崎県北松浦郡御厨村(現松浦市)に松浦四十八党の一つとして地方に重きをなした。その一族御厨は与賀郷実久に威徳寺を菩提寺としたとある。 高伝寺の末寺となったのは、いつの頃か不明だが、龍造寺の時代と推定される。威徳寺は龍水院に合併したが、この威徳寺の名を知る人は少ないようである。
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円通寺
【名称(山号)】福聚山 円通寺 【宗派】曹洞宗 【本寺】高伝寺(佐賀市本庄町鍋島家菩提寺) 【開山】一桂懐芳(宝永2年8月15日入寂) 【開基】鍋島光茂公(元禄13年入寂) 【墓地】2反2畝6歩 地米1石2斗7升5合御歳入 【沿革】 四国の金毘羅神宮を併祀する。神仏混淆の時代、当寺の西南隅にあり。高伝寺15世懐芳大和尚を当時開山として迎え、現在13世なり。開山大和尚死去(宝永2年(1705)8月15日)鍋島勝茂公死去に伴い、円通寺を建立し隠居する。
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妙福寺
【名称(山号)】寂静山 妙福寺 【宗派】浄土真宗 本願寺 【本寺】京都府西本願寺 【創立年代】創立は寛永15年戊寅(1638)人皇第110代後光明天皇、徳川家光将軍時代に現在の佐賀市伊勢町蓮生寺の末寺として創立された。 【開基】高木宗運、蓮生寺開基の弟である。元禄6年4月13日入寂、高木鑑房の子孫で、鑑房は天文23年3月入寂。 【沿革】 御本尊は阿弥陀如来立像で、文政7年12月再興され、細工人は狩野、享和元年(1801)過去帳書き初め文政11年4月13日、14日、15日の三日にわたり、51年来珍しき大地震あり。また同年8月9日古今無双の大風ありて、家屋その他建築物の倒壊甚し。また同年8月24日晩より25日朝にかけて大風ありて、当寺の山門倒れり。弘化4年11月山門再興される。現在の本堂は昭和5年6月改築完成した。 【その他の特記事項】 安政3年12月14日、旧藩主鍋島若殿様御昼休みされたら、御拝領定銀200疋、文政5年御上に金3.000両を献金した。 【檀徒戸数】110戸(東与賀町内61戸・外に川副町等) 【備考】 山門は開基の時、元禄6年(1693)4月のもので、楠材を用い、作者は佐賀市与賀神社山門と同人という。彫刻が見事で、表面と裏面を全く異なる風物を画いている。 半鐘は享保18年(1733)第6世見佳とあり、谷口安左ェ門の銘がある。 この寺も寺子屋の跡らしく、第13世高木行順住職が師匠であった。寺内に落書きした「梵語(ぼんご)」の文字が残っている。
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円光寺
【名称(山号)】普照山 円光寺 【宗派】浄土真宗本願寺派 【本寺】京都府西本願寺 【創立年代】天正8年(1580)に西本願寺より寺号授かる。第106代正親町天皇の頃である。 【開基】内田紀伊の末孫、内田四郎左衛門が出家し流教と称した。寛永元年(1624)開基。 【沿革】(『円光寺建立之年記』による) 内田四郎左衛門は道免より別れて初めは下古賀(現在の鍛冶屋-秀島氏宅西側)に居住し田地も7・8町歩に達したが、大雨水害のため家産をなくしたため、下古賀のうち船津南(現在の今町の現地)に出家し、寛永元年(1624)寺院を建て流教と称して開基した。これが現在の円光寺である。 過去帳書き初め−寛文12子年(1672)本尊−阿弥陀如来、現在の本堂は明治24年第12代住職五十嵐卓道によって建立された。 開基の流教は、布教はもちろん治水事業にも力を入れ、現在も本寺の南方約500mの所に「左衛門井樋」が残っている。この井樋は流教(左衛門と号した)が構築したもので、昭和28年の佐賀県を襲った集中豪雨と大水害の際にも非常に役立った。この近郊の村民は、「シャーモン井樋」の愛称で呼び、その遺徳を偲んでいる。従来その井樋の直ぐ側に、記念碑(四角で高さ60cm)を建てていたが、今回の圃場整備の際に心なくも無雑作に撤去され、せっかくの功績も跡なく消失して誠に残念である。 山門側の鐘楼には、戦前まで梵鐘がつるされてあって、朝夕には毎日時刻を告げていたが、昭和18年の戦時中に供出され今日では鐘楼だけが残っており、寂寥を禁じ得ない。 【その他特記事項】 本寺院の周囲は堀に囲まれた「城づくり」になっている事が特徴で有名である。現在の庫裡は、住職第14代五十嵐貫雄の時、昭和45年11月に新築された。 客僧室の地下には、先祖からの鎧・かぶと等が埋蔵されているとの伝承がある。 檀徒戸数137戸
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栄蔵寺
【名称(山号)】地福山 栄蔵寺 【宗派】曹洞宗 【本寺】慶誾寺(佐賀市本庄町鹿の子) 【創立年代】天正10年(1582)10月 【開山】慶誾3世中興文応全芸大和尚(入寂慶長7年10月15日) 【沿革】 御本尊は釈迦牟尼仏で、木造の金箔である。 本堂は、昭和9年当山21世中興玄道鶴音大和尚が、私財を投じて現在の位置に再建した。 【宝物・文化財・世代墓所等について】 十六羅漢(木造)は、本寺慶誾寺の三(山か)門(表門)に安置されていたものを、明治初年頃廃仏毀釈の折に、当寺へ寄進移行されたものである。 その廃仏毀釈の折慶誾寺裏門は、現在の飯盛悟真寺の山門に、五百羅漢は佐賀市北川副町岩松軒に移動してある。 【その他特記事項】 世代墓は昭和53年3月、当山22世超宗徹男老和尚の33回忌法要の節に23世弘明住職の発起で本堂裏の現在地所に再建した。 当寺の山門は明治21年に建立され、六地蔵の2基及び副島一鳴の墓地あり。 境内には戦前より小学唱歌で宣伝された「勇敢なる水兵三浦虎次郎」の記念碑が建立されている。 大般若経六百巻(楠箱漆塗木版製) 檀徒戸数 60戸
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光徳寺
【名称(山号)】冨永山 光徳寺 【宗派】浄土真宗本願寺派 【本寺】願正寺 【創立年代】慶長19年(1614)正月26日慶長年代福岡在住の福岡惣右衛門が当地に移住し、鍋島勝茂公に仕えていたが、老後出家して摂取山光徳寺を建立した。しかるにその娘冨永亦は局役として勝茂公に仕えたが、後尼となり、父の寺で主君の武運長久を祈った。寺号を冨永山光徳寺と改む。 【開基】了玄法師・慶長19年正月26日入寂。 【沿革】 光徳寺第1世了玄(1614年)本尊阿弥陀如来金色(慶長2年勝茂公朝鮮陣立卜伝)大正11年4月5日に火災、幸いにも本尊と過去帳は無事搬出され、本堂は大正14年再建された。 【宝物・文化財・世代墓所等について】阿弥陀如来像(木造)勝茂公朝鮮陣立卜伝「朝鮮御陣所御持越阿弥陀佛寄進」光徳寺初代福岡姓の墓、妙春尼之碑(本堂南側に在り) 【その他の特記事項】 光徳寺12世乗船教師・遺子富衛法師大正13年朝鮮清津で死去(福岡姓)於此光徳寺血統断絶・明治12年武内村円楽寺12代獅山三男昊嶺入住於此寺(松橋姓) 御本尊の阿弥陀仏は、陣立如来である。その昔豊臣秀吉公が朝鮮出兵の折、鍋島勝茂公が持ち帰ったことから「陣立如来」の名が生まれたという。この「陣立如来」のお陰で、出兵は大成功のうちに終了した。勝茂公はこの阿弥陀仏を大切に持ち帰り、その没後その乳母が出家し「妙春尼」となってこのままこの光徳寺に祀った。これが始まりであると言われる。この「妙春尼」の墓は、当山累代の墓地内にあって、ありし日の婦徳が偲ばれる。 松橋の姓については光徳寺の北側には昔広い池沼があり、その水際に1本の松の大樹が聳えていた。去る年暴風雨の際横倒れにたおれたために、その松を橋にして向う岸へ渡っていた。そのころから「松橋」の姓が生まれた由。前住職故松橋好忍(明治16年10月16日生)が生前中に物語ったという。 【その他】 境内坪数 3反3畝歩(田1反8畝・畑1畝・宅地1反歩・墓地4畝歩) 檀徒戸数 50戸
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悟真寺
【名称(山号)】飯盛山 悟真寺 【宗派】曹洞宗禅宗 【本寺】龍泰寺(佐賀市赤松町) 【創立年代】慶安4年(1651)後光明天皇、第5代将軍徳川綱吉の頃創建された。 【堂宇坪数】33坪 境内220坪 台所外30坪 【沿革】 古老の伝説によると、本寺の敷地土壌は八田江及び本庄江のあず(砂地)が沈積して高地となったので、新地を開拓するために下飯盛や大野村へ炊き出しをした。その際「飯を盛った」という事から「飯盛山」と名称し山号とした。その後代官所ができ、船の出入りを監督せしも、丸目干拓(佐賀市西与賀町)ができたので、代官所も丸目に移転した。従ってこの寺院の檀徒も丸目へ移住したらしい。 本寺龍泰寺9世玉宝寿礼大和尚、慶安4年(1651)悟真寺開山となる。並びに明治30年頃開田庵11世悟法実参大和尚佐賀県宗務所長高伝寺及び本山に参寺法地の願書を提出して、開田庵10世招学実應大和尚を悟真寺開山大和尚となし、自己の徒弟麟子霊堅大和尚を2世となしたるも約10年で埼玉県に転住す。よって徒弟の良契実証大和尚が3世となり、約50年後佐賀市中の館円蔵院に転住した。それで現在の良誕実雄大和尚は第4世となる。 昔は、現在のように気象庁が無かったので、海上で風害や水難に遭遇し幽魂となって祀られた者が多く、明暦3年より322年第4代将軍家綱、天皇(12代)になりその他檀家のものが死亡したため平侶地を建立された。 本寺は昭和47年3月22日火災のため、本尊観世音及び過去帳全部を焼失した。各檀家から御位牌の写しを借り集めて過去帳を整備補充した。火災の原因は不明だが、午後4時頃の出来事で、当日は不幸にも西風が強く、焼けた灰粉は遠く離れた東部の上古賀あたりまで飛んだ。火勢も強烈だったため、鉄製の半鐘も燃えただれ御堂庫裡等すべてが烏有に帰したのである。ただ一つ山門のみがポツンと残り当時の悲惨な情景を偲ばせる。この山門は明治初年の頃慶誾寺(佐賀市本庄町鹿の子)より寄贈されたものである。 【その他】 五輪の塔は、徳川初期のものと言われ、由緒は不明。 境内に日清戦争で戦死した水兵の碑がある。
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開田庵
【名称(山号)】百丈山 開田庵 【宗派】曹洞宗禅宗 【本寺】龍泰寺(佐賀市赤松町) 【創立年代】享保2年(1717)龍泰寺の末寺として創立する。 【開基】 前住開山 怒芳和尚 法地開山 峰月圓澄大和尚(元禄4年8月14日入寂) 【沿革】 享保2年下飯盛の富吉梅作の先祖である富吉千右エ門が、怒芳和尚(坊主)を連れてきて、この土地に草庵をこしらえた。 その頃下飯盛の御厨新一宅南に浄正寺という寺院があったが、火災に遭い復旧ができなかった。仕方なく前記の草庵に合併した。本寺も享保年間以後の者しか過去帳はない。 その後8代続いて、佐賀市龍泰寺11世の弟子法地開山峰月圓澄大和尚(元禄4年8月14日入寂)が寺の格好を作り、これから開田庵と名称した。 十一面観世音菩薩は木製の金箔。昭和10年5月4日火災にあい本堂・庫裡等全焼した。 【宝物・文化財・世代墓所等について】 世代墓地は本堂の南側にある。宝物・文化財等なし。 檀徒戸数 80戸
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竜田寺
【名称(山号)】慶雲山 竜田寺 【宗派】曹洞宗 【本寺】龍泰寺(佐賀市赤松町) 【創立年代】真言宗龍田寺(建立開山)儀仲和尚・応安6年(1373)示寂・後円融天皇の御代・将軍足利義満代、人皇119代光格天皇・天明6年(1786)徳川家斉将軍時代・佐賀市赤松町龍泰寺の末寺として創立。 【開基】道手蔵之助(入寂年月不明) 【沿革】 本尊は観世音菩薩で金色・作者は彫刻師藤原光長の名作である。竜田寺の東側に「道手」という地所名があるが、開基の名残と思われる。 元治元年(1864)火災。当時留守番の小僧が、軒下の蜂の巣を採ろうとして藁に火をつけたところ、軒先に燃え広がり遂に火災となった。そのため寺院は全焼し過去帳も全部焼失した。 しかしその年に中飯盛古川栄一の祖父の寄付により再建した。 開基の恵燈雄明和尚が曹洞宗の始まりで、その前は真言宗であった。開山の儀仲大和尚は、応安6年(1373)10月25日死亡し、その前にこの寺院はできていた。 山門は佐賀城(佐賀市城内)の通用門であったが、払い下げてもらい受けたもの。竜田寺以前は3軒の寺を合併し、先住の祖岩氏はその住職の一人でもあった。祖岩清高和尚は、昭和24年5月3日普山式を行った。 明治の初期、この寺院は寺子屋として、付近の学童等の勉学と修養の場でもあった。 【宝物・文化財等】 巌谷小波の絵画・仏教書あり 世代墓所は本堂の裏に安置する。 檀徒戸数 198戸
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地蔵院
【名称(山号)】瑞光山 地蔵院 【宗派】曹洞宗 【本寺】平安山 龍泰寺(佐賀市赤松町) 【創立年代】享保年間(1716〜1735)に龍造寺隆信公の菩提寺である佐賀市赤松町龍泰寺の末寺として創立した。 【開基】龍泰寺17世一丈元長和尚 【沿革】 過去帳の書き初め年代は、享保17年子(1732)7月と記入御本尊延命地蔵菩薩木造彩色あり、本堂の大改築は明治41年に本堂及び庫裡を改築す。重ねて昭和39年2月工事に着手し10月落成す。本堂位牌所等新築改築し現在の伽藍となる。 【宝物・文化財等】 佐賀の名木・古木・樹種は楠の木、樹齢250年(登録番号10337)この寺院の大楠は同村落の北部飯盛八幡神社の境内にある大楠と「夫婦楠」という名称を有する。 【その他特記事項】 新四国八十八か所の霊場第50番奥の院。 檀徒戸数 76戸 【備考】 当地蔵院は、元来その創立時は天台宗に従属し、庵に等しく無寺格であったらしい。元祖の龍泰寺17世一丈元長和尚は、この寺院には地理的にも近かったため、しばしばこの寺院に足を運んだという。檀徒の願望により改宗して現在地に移転し、その末寺となった。この地辺一帯は、有明海に接した所で、干拓地による関係だと言われる。従って地蔵院4世文山大啓和尚によって法地開山となる。 本寺の龍泰寺は、龍造寺隆信公の菩提寺であり、後半は大隈重信侯の菩提寺となった。 この境内に八十八か所の札所がある。地蔵院11世祐門大和尚の時に造られ、一般大衆に仏門帰依を呼びかけたものである。その他にねはん像・弘法大師大正13年に鶴仙和尚の時代に作られたものがある。六地蔵さん2台も有名である。 金毘羅権現・火の神さんで年1回この下飯盛の小路が主体となってお祭りをする。安永年間(1772〜1780)に建ったもので御3体を祀ってある。 ※『佐賀県近世史料第10編2巻』p136(天明八年の書上帳)によれば、「当院儀は文禄年中建立、夫ゟ龍泰寺末寺ニ附来候事」とあり文禄年中(1592~1595)の建立としている。また、開山は秀岩良田大和尚とあり。地蔵院4代を一山晃天庵主としていて、享保年中の在住は9代月耕恭牷大和尚としている。
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請願寺
【名称】明法山請願寺 【開基】昭和26年4月21日 【開山】徳島隆明 【本山】佐賀県三養基郡基山町瀧光徳寺 【沿革】 宗名を中山身語正宗といい、御本尊は中山不動明王である。宗祖覚恵上人は大正10年4月瀧光徳寺を開創され、昭和21年宗教法人令のもと「中山身語正宗」として独立した。 信徒会館は昭和54年7月、開基30周年の記念事業として建設、総工費5.000万円の巨額に達したが、信徒の浄財をもってこれにあてた。3階建の堂々たる建築で諸会合やお経を念ずる大広間をはじめ、宿泊所や食堂まで完備している。 【恩日】毎月1日・15日=祈願祭、8日・28日=廻向祈願 【信徒】450戸