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[旧佐賀市][指定文化財 国 史跡]は5件登録されています。
旧佐賀市 指定文化財 国 史跡
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東名(ひがしみょう)遺跡
史跡
東名遺跡は、今からおよそ8,000年前の縄文時代早期の遺跡で、国内最古の湿地性貝塚です。遺跡には居住域・墓地・貝塚・貯蔵穴がセットで残されており、縄文時代のムラ全体の様子が良くわかる国内でも数少ない例として貴重なものです。 また、縄文海進の影響で、遺跡全体が厚い粘土層に覆われるなど保存条件にも恵まれ、国内最古級の様々な遺構・遺物が良好に残存しており、日本の生活文化の源流を考える上で極めて重要な遺跡です。
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銚子塚
史跡
脊振山系南麓から南へ1キロメートルほど下ったゆるやかな微高地上、標高15メートル付近に位置する前方後円墳である。前方部を西に向け、全長98メートル、後円部径58メートル、高さ8メートル、前方部幅32メートル、高さ4.6メートルである。墳形は前期古墳に特徴的な柄鏡(えかがみ)形で、後円部と前方部の比高差も大きい。前方部は戦中戦後の開墾と土取りで段状に削られ、斜面部は石垣となっているが、墳丘の遺存度は良好である。後円部が3段に、前方部が2段に築成され、後円部には花崗岩質の葺(ふき)石が多数認められる。周濠は幅11.5メートル~28メートルと広く、墳丘に沿って巡っており、中期古墳に多い楯形(たてがた)周濠に先行する形態である。内部主体は竪穴(たてあな)式石室と推定されるが、実態は明らかでない。現在、墳頂に忠魂碑が建てられているが、大きな盗掘の跡などは認められず、内部主体、副葬品等の遺存状況は良好であると思われる。 本墳を特徴づける出土遺物に土師器(はじき)の二重口縁壼6個体以上がある。これらは開墾中に偶然出土したもので、その出土位置は南側くびれ部の2段目テラス付近と推定される。いずれも丹(に)塗りが施され、胴下半部が長くのびて、底部には焼成前の穿孔(せんこう)が認められるなど 形態は壼形埴輪(はにわ)に極めて近い。 本墳はその墳形と出土遺物から4世紀末ころに築かれたものと推定され、古墳時代前期の佐賀平野における政治権力の存在を知ることができるとともに古墳文化の伝播(でんぱ)と成立を考える上で重要な意義をもっている。
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西隈古墳
史跡
脊振山系南麓の緩やかな台地上、標高30メートル付近に位置する径約30メートル、高さ約4メートルの円墳である。墳丘は周囲を宅地や畑により削られているが、わりと残りは良く、2段に築成されている。墳丘上からは形象埴輪(けいしょうはにわ)・円筒(えんとう)埴輪の破片が採集されており、また葺石(ふきいし)帯の存在も確認されている。 本墳の内部主体は初期横穴(よこあな)式石室で、内部に横口式の家形(いえがた)石棺1基を納めている。玄室(げんしつ)は長さ3.3メートル、幅1.5メートル、高さ17メートルで、周壁は基底部に腰石を裾え、その上にやや偏平な塊石を平積みしている。玄関の外側には長さ2.8メートル、幅1.1~1.4メートルの前庭側壁が続く。使用石材はいずれも花崗岩で、玄室内には赤色顔料(せきしょくがんりょう)が塗られている。 玄室内の石棺は阿蘇山系の凝灰岩(ぎょうかいがん)製で、玄室主軸方向に設置されている。長さ2メートル、幅1.1メートル、高さ1.3メートルで、4枚の板石を組み合わせており、底石はない。玄関側小口面には一方にかたよって横口部が設けられている。棺の蓋(ふた)はカマボコ形に近い寄棟(よせむね)で、両長側辺に各2個の環状縄掛突起がある。棺身及び棺蓋の玄門側小口面にはコンパス痕を残す円文及び連続三角文を線刻し、図文以外の部分に赤色顔料を塗っている。本墳は以前に盗掘にあっており、挂甲片(けいこうへん)、鉄鏃(てつぞく)等の遺物がわずかに出土したのみであるが、石室・石棺の構造より5世紀末ごろの築造と推定され、環有明文化圏における石棺系装飾古墳の代表例として重要な位置を占めるものである。
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大隈重信旧宅
重要文化財
佐賀城下の東部にあって東西に通るいわゆる「佐賀の七小路」は北から順に「馬責(うません)馬場・通り・椎・花房・中の橋・枳(げす)・会所」の各小路で、佐賀藩の中流クラスの石高の武士が住いしたところである。大隈重信の旧宅はこの一番南の会所小路の南側にある敷地約315坪(1039.5平方メートル)、建坪約45坪(148.5平方メートル)の佐賀地方に多い「コ」の字形をしたかぎ屋の一部平屋、一部2階造りの家である。2階は重信の勉強のために母親が建て増したものといわれている。 大隈重信は、天保(てんぽう)9年(1838)この家で父大隈信保、母三井子の長男として生まれた。父信保は鉄砲組頭(くみがしら)などをつとめた人で、天保3年(1832)にこの家を買得した。重信は誕生以来ここを住居とし、幕末動乱期国事(こくじ)に奔走(ほんそう)し、明治元年(1867)ここを去って東京へ移った。 旧宅は建築当初からすると2間ばかり北にひかれ、玄関に改造のあとがあり、また台所は撤去されて管理部屋が付設されるなど、少し改造されているが、座敷・次の問・居問等の主要部はよく残っている。また、昭和43年(1968)に解体修理されている。 現在、佐賀城下の武家屋敷は屋敷の門をのぞいてはほとんど残っていない。その意味からも大隈重信旧宅は佐賀城下の一般的な武家屋敷のありようを示すものとして貴重なものといえる。
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帯隈山神籠石
重要文化財
神籠石は佐賀市の北部山麓に築かれた古代山城(やまじろ)である。帯隈山(標高175メートル)を中心に切石を並べた列石線が約2.4キロメートルの長さで一周し、途中、北面に門跡1か所、南面に水門推定地3か所がある。昭和16年(1941)に発見され、同39年に発掘調査された。 列石線は帯隈山から天童(てんどう)岳、清兵衛(せいべい)山にかけ、尾根上を地形に合わせて複雑に屈曲し、途中、小さな谷を渡る場合は出水に備えて水門を設けていたと思われる。全体としては北側山頂部から下って南側山裾を廻り、2、3の低丘陵を取り囲んで馬蹄(ばてい)形状をなす。列石の用材は花崗岩(かこうがん)で、高さ60センチメートル前後の直方体に切りそろえられたものである。 神籠石という名称は、かつてこの列石が神域を示すものと考えられていたことによるが、発掘調査の結果、実は列石は土塁(どるい)の基礎であり、その背後上部には高さ2、3メートルの土塁が版築(はんちく)によって築かれ、また石塁前面の平坦部には約3メートル間隔で木柵が立てられていることがわかっている。 神籠石は現在、北部九州から瀬戸内一部にかけて12か所知られる。しかし、その存在は文献に明らかでなく、また規模や立地、域内に建物跡がみられないなどの点で、基肄城(きいじょう)跡など朝鮮式山城と様相が異なる。6、7世紀ごろの築城とされるが、正確な年代、目的、性格となると不明で、今日でもまだ謎が多い。