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[旧佐賀市][指定文化財 佐賀県 書跡・古文書]は7件登録されています。
旧佐賀市 指定文化財 佐賀県 書跡・古文書
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紺紙銀字法華経 八帖
重要文化財
この法華経(ほけきょう)は、朝鮮半島高麗(こうらい)時代のものである。中国や朝鮮半島の法華経は、7巻本が通例であり、この法華経は高麗写経の中では、極めて珍しい8巻本である。 表紙及び裏表紙には、金銀泥(きんぎんでい)で宝相華唐草文を描き、見返し絵は、金泥で巻第1は釈迦説法図(しゃかせっぽうず)、第2から第7までは多層宝塔、第8は菩薩半跡像(ぼさつはんかぞう)を描いている。巻第1の釈迦説法図は、大東急記念文庫所蔵の中国元時代の法華経に酷似している。 経文は、銀字で1行17字詰めに整然と書く。 第8巻の奥書に、道人玄哲らの発願により、壬申(じんしん)の年制作されたことが記されている。見返し絵の作風などから、干申の年は朝鮮半島高麗時代の忠粛王復位元年(1332)と推定されている。 この法華経は、確認される高麗写経のなかで8巻本法華経唯一の遺例で、特異な図様の見返し絵、経文ともに優れており、また、大変によい保存状態である。 また、東アジアにおける経典見返し絵の変遷を考察する上で重要な作例である。 当地に多く伝えられる、文化的特色をなしている高麗時代の仏教美術を代表する作品である。 (写真:鍋島報效会提供)
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紺紙金字法華経 七帖
重要文化財
表紙には宝相華唐草文を金銀泥(きんぎんでい)で、見返し絵は釈迦説法や経典内容を金泥で描いている。経文は、金界線を引き、1行17字詰めの金字で書く。経帙は近世の後補であるが、題箋(だいせん)は当初のものである。金剛杵をかたどる象牙の帙(ちつ)留具も当初からのものである可能性が高い。 見返し絵は、極めて謹厳な筆致により細密に描かれていて、経文も力強い。高麗の宮廷工房である金字院の制作の可能性も考えられる。 第7巻の奥書により、至元6年(1340)に沙門淵鑑を発願者とし、柏厳と聡古により筆写されたことがわかり、施主と幹事の名も記される。また,それに続く別筆の施入銘からは、対馬を通じて高麗と交修していた少弐頼尚(しょうによりひさ)が正平12年(1357)に太宰府天満宮に寄進したことが知られ、さらに後に続く再施入銘により尼僧妙安により佐賀龍泰寺におさめられ、寛文3年(1663)に枝吉利左衛門により修理再納されたことがわかる。高麗装飾経の代表作として、美術的価値はもとより、制作から日本に請来された後の伝来事情までを明確に記す歴史資料としても重要である。 (写真:鍋島報效会提供)
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正法寺文書 三十二通
重要文化財
正法寺(しょうぼうじ)文書は、佐賀平野の中央部、現佐賀市北部の臨済宗東福寺派正法寺に伝来したもので、総数32通、時代は鎌倉時代から室町時代にわたるものである。 最も年代の古い正和(しょうわ)3年(1314)の鎮西御教書(ちんぜいみきょうしょ)は、鎮西探題北条政顕(まさあき)が寺領内に武士が乱入して乱暴なふるまいを働くことを禁じたもので、当寺を保護するための命令書である。 以後、南北朝時代・室町時代にわたり、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・一色道猷(いっしきどうゆう)・征西将軍宮懐良親王(かねながしんのう)など、著名な人物が当寺に文書を与えて、祈祷を依頼し、また保護を加えている。 当寺は、もともと肥前の有力な御家人(ごけにん)高木氏歴代の菩提寺で、このため、高木氏の成長とともに寺の勢を拡大維持し、他寺に抜きん出たものと考えられる。 一か寺として、鎌倉時代から室町時代にわたる著名な差出人の文書がまとまっており、肥前の有力御家人の菩醍寺(ぼだいじ)がどのような勢力と結びついていったかが、一貫してうかがえる貴重な文書である。現在は巻子本(かんすぼん)2巻に仕立てられている。
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泰長院文書(一〇五通)十二巻
重要文化財
泰長院は、天文5年(1536)龍造寺大和守胤久によって建立された曹洞宗の寺院。もと今の佐賀城内にあったものを、慶長年間(1596~1614)佐賀城構築の際、現在の地に移された。現在は、臨済宗の南禅寺派に属している。 泰長院に保存されている文書は、全部で105通あり、これを大小12軸の巻子に仕立てられている。これを大別すると次のとおりである。 1、龍造寺氏から当院の住僧にあてた書状。隆信(2通)政家(2通)高房(5通)村田安良(2通) 2、鍋島氏から当院三世住職是琢和尚にあてた書状。直茂(10通)勝茂(18通) 3、肥前国内諸家その他からの書状。江上氏、神代氏、元佶和尚(各1通) 4、文禄慶長年代朝鮮役のとき、敵国諸部将から鍋島直茂にあてた書状その他(62通) 5、是琢の日記(朝鮮在陣中のもの1巻) 上の内、1,2,3の肥前国内関係のものは、おおむね私信といってよく、寒暑の見舞、物品贈答の添状謝状、また茶事の招状などである。この私文書によって、是琢(ぜたく)が直茂、勝茂父子といかに親密で、かつ信任されていたことが知り得られる。 一方、4に属する朝鮮軍部将の書簡は、ほとんど講和についての内容をもっており、直茂が戦闘部隊の指揮官の外、外交についての重要なものであることを特記しなければならない。 この寺に、これだけの重要文書が遺されているのは、泰長院の住職是琢が直茂に従い渡朝し、外交担当の要人として渉外に関与していたからである。また、5の是琢日記も貴重な文献である。
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紺紙金字法華経 七巻
重要文化財
高伝寺の紺紙金字法華経は12世紀半ばに定型化する釈迦説法図の構図を受け継いでおり、謹直な描線でモティフの形態を精密に描く画風は、12世紀第3四半世紀ごろの制作と考えられる。 表紙には、宝相華唐草文を、見返し絵は釈迦説法図(しゃかせっぽうず)や経典内容を金銀泥(きんぎんでい)で描いている。経文は、金銀界を引き、1行17字詰めの金字で書く。軸木は檜材割軸。軸首は8個が残り、内2個が当初のもので、金銀製撥型で魚々子地に花文を線刻し、金銀の鍍金を施している。 また、大鎧を身につけた武者など時代性を反映した新しい図像もみられる。 当初の軸首が一部にのこっていることも貴重である。 平安時代後期の優れた紺紙金字経と認められ、菩提寺である高伝寺に伝えられることは鍋島家の文化受容の一端をうかがわせ興味深い。
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正法寺所蔵大般若経 一括
重要文化財
正法寺は、佐賀平野のほぼ中央に所在する臨済宗東福寺派の古刹(こさつ)で、佐賀地方の代表的な武士の一家であった高木氏の菩提寺として鎌倉時代から室町、戦国時代にかけて有力な寺院であった。 この写経は、もと縦26.8センチメートル、横13.0センチメートルの折帖装(おりちょうそう)であったが、風水害によって重なっていた紙と紙とが密着してしまい、紙塊(しかい)となったものが多い。書き写された時代は平安末期~鎌倉初期と推定されるものから江戸時代の補写のものまでに至っている。使われている料紙(りょうし)(文書を書くのに用いる用紙のこと)は楮(こうぞ)と雁皮(がんぴ)のまぜすきを黄蘗(おうばく)で染めたものと思われる。 中は罫高(けいだか)20.3センチメートル、罫間(けいかん)1.9センチメートルの罫線に1面7行、1行17字を典型的な写経風の整った書体で書いている。 巻末の奥書きには「大般若波羅密多経巻第二百五十一 明徳五年甲戌三月一日 天叟書」や「東大寺以正蔵院本一校了」など、書写の年代の記されているものや、東大寺記録によれば建長5年(1253)ごろまで存在したという東大寺子院の正蔵寺の本によって校正されたものなど興味深い貴重なものがある。
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深江家文書 一〇五点(一〇四通と一冊)
重要文化財
深江家文書は、市内に所蔵されている龍造寺家文書、深堀家文書とともに代表的な武家文書として高く評価される。深江家はもと安富氏といい、文永2年(1265)に安富泰嗣(やすつぐ)が肥前国高来東郷深江村の地頭職を得て、その子頼泰(よりやす)が鎮西引付として関東から九州入りし、島原半島の深江村を本拠として土着したことに始まる。 近世初期のころ、西九州の豪将であった龍造寺隆信の勢力が、この地方に及んだときに、安富氏はその勢力下に入り、その後隆信の島原の戦における敗死と同時に一族をひきいて鍋島氏に属した。 この安富一族に相関連した文書は、総数104通、巻子本3巻に仕立てられているが、比較的に保存がよく貴重な歴史資料である。 その内容として、上巻は、33通からなり、文永10年(1273)6月の「六波羅御教書」正応2年(1289)3月12日の「蒙古合戦、勲功賞、肥前神埼荘配分状」、正安2年(1300)12月7日「仁和寺領、肥前高来東郷荘、深江村年貢状請取状」、正和4年(1315)の「関東御教書、鎮西御教書」などがある。 中巻は、32通からなり、建武3年(1336)7月8日の「足利尊氏感状」、貞和6年(1350)7月10日の「足利直冬御教書、同下文」などがあり、下巻は38通からなっており、正平17年(1362)5月、他の日附2通の「征西将軍宮懐良(かねなが)親王令旨(りょうじ)」などがある。いずれも南北朝時代の肥前領の動きや、当時の政情を学ぶ上で重要な資料である。