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[物語・いわれ][地名・とおり名][若楠校区]は3件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 若楠校区
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八丁畷と兵営のつながり
八丁畷と兵営のつながり(こぼれ話) 八丁畷は、兵営の南に位置し、兵営とは密接につながりがあった。第一に区域の北半分の農地が兵営の敷地となって、耕作面積が著しく減少したことは間違いない。 また、生活面でも多大の影響を受けていて、朝の起床ラッパから夜の消灯ラッパまで、風向きによっては、大きく聞こえていた。通学路も高木瀬小学校が北にあったので兵営の両側が通学路となっていた。 兵営北東の角は、大きく土盛されており、ここに軍の弾薬庫があったので、常時武装した兵が厳重に警戒していた。東側には裏門があり、ここは金立山麓にあった実弾射撃演習場に通じる道路の出入り口で、射的道といっていた。ここに大きな糞尿の貯め槽があった。兵営から排出される糞尿処理場で、入札によって処分されていたという。兵営の南に衛戍病院があり、戦後は国立病院と生まれかわり、多くの人達に利用されている。 確か軍旗祭の日と思うが、この日は一般に開放され、入場見学することができた。兵隊たちも官給の酒があったようで一日休養されていたようだった。この日の模擬演習で機関銃の射撃音は忘れられない。 兵営前の往還(現在の国道263号線)には、佐賀駅から川上まで電車が通っていて、それは昭和12年にバスに代わるまで利用されていたと町史にある。この往還の西側に兵隊専用の慰安所まであったようである。 昭和16年の中島氏の日記には次のように記載されている。 昭和16年10月20日から2泊3日、兵営に体験入営していたことを記している。 当時、高木瀬にあった青年学校生徒として、10月20日午後から執銃者24人、徒手26人で入営した。隊長訓示のあと、銃剣術の指導があり、夕食後の訓話、翌朝起床ラッパで飛び起き、乾布摩擦のあと宮城遥拝、軍人5か条を奉唱のあと、朝食後銃剣術、防空訓練、午後練兵場で演習のあと夕食後に、夜間演習を体験する。 翌朝も乾布摩擦のあと昼まで銃剣術で鍛えられ、昼食後部隊長の閲兵、分列があり記念写真を撮り散会したと記している。
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城井樋
高木瀬町史によれば、「城井樋」という名称は、佐賀藩時代、現在のところに井樋を設置し、佐賀城へ用水を確保するために城井樋と称するに至ったというと書かれている。 現場には、その井樋が存在するが、規模も小規模で、地形的な位置などを総合検証する限りにおいて、城井樋の由来が高木瀬町史に言う「佐賀城の用水を確保したために城井樋と称するに至ったという」ことに、やや疑問が生ずる点もあり、そうしたことを証明する新たな裏付け資料はない。 地区の古老の話には、「城井樋は、佐賀城の用水確保というよりも、同井樋が比較的多布施川の上流に位置したことから、「上井樋と言った」」と言われていたことを聞いたことがある。
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八丁畷の由来
八丁畷は、「八丁の畷」とも読める。畷とは、耕作地間の「あぜ道」のことを言い、おそらく下高木宿から三溝宿まで八丁の間隔があったことから「八丁畷」と呼ばれたのではないだろうか。 ここ八丁畷地区は、もともと高木瀬村東高木と同じ行政区だったが、第55連隊の兵営が出来たことによって自然に分断される形になっていた。 昭和36年に正式に分離して八丁畷区が誕生した。