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[物語・いわれ][地名・とおり名][兵庫校区]は2件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 兵庫校区
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平重盛と経の島
大化の改新後、大宝律令が制定され、公地公民の基本的政策のもとに政治が一新された。 しかし、貴族や官職の位階、大小の社寺、朝廷に対する功労などにより応分の私的所有田が与えられた。いわゆる荘園である。これは班田制の崩れるもととなり、武士の起こりの要因ともなった。やがて中央集権制度の弱体化に伴い、地方は争乱のちまたとなり、政権は貴族から武士に移り、封建時代が始まった。 12世紀頃西国の武士団は平氏の権力に属し、平正盛、忠盛らは山陽、南海、西海に勢力を伸ばしていた。『長秋記』によれば、忠盛は長承2年(1133)、肥前国神埼荘で宋船と貿易を行なっており、杵島郷は大功田として平清盛に与えられ、鹿瀬荘は教盛の所領で、わが兵庫の地域に平重盛の領地があった。 重盛は父清盛の罪障消滅を祈って、高倉天皇の治承3年(1179)、領地の千住に経島寺を建立した。みずから金泥をもって紺紙に法華経を浄写し、これを石棺に納めて霊域を選び、ここに埋め周囲を掘り上げて島を造った。 今も経島寺の門前に5アール余りの濠にめぐらされた小島が現存する。これを経の島と呼んでいる。
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津出し道
東中野の中央部を通っている道路は、藩政時代「津(船のつく所を津といった)出し道」といい、上は山内地方へ、下は巨勢郷高尾に通ずる往還(道路のこと)で、人馬の往来が絶え間のないほどであったといわれている。