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[自然][河川・水路][西与賀校区]は3件登録されています。
自然 河川・水路 西与賀校区
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本庄江湖
本庄江は鍋島深町の北部一帯の小河川の流れを集めて嘉瀬、西与賀を経て有明海に注ぐ延長約8.1kmの河川で嘉瀬川水系に属している。 この川は人工の河川で文明14年(1482)少弐氏が開削したと伝えられている。 上流の高橋は八戸宿の西の端にあたり佐賀城下の入口で番所が設けられ、本庄江湖をさかのぼる川舟の終点でもあった。 この周辺はかつて荷を運搬する牛馬や人々が往来し長崎街道の物資の集散地として栄えた。 佐賀藩が嘉永3年(1850)西洋式反射炉を造り大砲鋳造所で長崎防備用の大砲を見事に鋳造した。これらに必要な原材料である南蛮鉄や、石炭等は本庄江湖を利用して運ばれており、藩政時代には運河として重要な役割をもっていた。
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有明海概要
有明海は、島原半島と天草諸島との間から佐賀平野の前面に入りこんだ奥深い内海で、長崎、佐賀、福岡、熊本の4県に囲まれており、筑紫海または筑紫湾とも呼ばれ、本県では一般に前海と呼んでいる。 平坦部を貫流する河川には、東から早津江川、本庄江川、嘉瀬川、六角川、塩田川、鹿島川などがある。潮汐の干満の差は非常に大きく、大潮時では6mに達する。従って、潮流の速度も速く、底質の関係で潮汐は沿岸に近づくほど混濁の度が著しい。
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西与賀の干拓
古来有明海は自然の営力による堆積作用が著しく、自然陸化する地域が所々にみられ、その土地を人々は開墾していったが、人口の増加はさらに広大な圃場を必要としていった。佐賀地方における干拓の開始時期は鎌倉時代とされているが、やはり江戸期から近代に至る間にその大半は形成されている。 江戸期においては藩をあげて干拓事業に力が注がれ、機構的にも殖産興業を目的とした六府方が天明3年(1783)に設置され、その中の搦方が中心となっていた。この六府方は治茂治下、長尾矢治馬(東郭)の献策によるものであり、これをうけて設置されたもので藩の財政に大きく寄与することになった。財源は万人講(現在の宝クジ)の収益金の5割をあて、大規模事業を実施していった。また民間資本による干拓も後年認可され、干拓事業は隆盛をきわめる。明治期になると築造の工法も近代的になり、事業規模はさらに大きなものも可能となり現在に至る。