川久保の宿
縄文末期に半島経由でも稲作が入ったが、筑紫平野の稲作は大陸中南部から有明海経由で異品種が入ったと言われる。
脊振山内には、先住の縄文人が大自然の中で悠悠と生活していたが、稲作技術を持った弥生人達と別に争うこともなく、山で獲れた野獣の肉や果実、干した青草と、平地や海で得られる塩や米、海産物の干物が、山の出入口で交換された。
西の都渡城、東の仁比山や川久保が、その交易地であった。
大化の改新後、太宰府の中央政府九州駐在所と、尼寺北に置かれた肥前国府を繋ぐ官道が、山麓の川久保を通った。その後川久保は平和時には文化交流地であり、非常時には進攻防守の要路となったが、神代氏が山を下りて川久保に居を構えると、城下町としての形態を整えた。
宿場と言うのは、街道筋の旅籠集落であるが、川久保のそれは小規模の『宿』で、今も高令者はそう呼んでいる。
縦横に道が交叉し、城下ともなれば人の往来も多く、情報基地ともなり、自ずと町が出来る。始めは単なる休憩所としてのお堂であり馬つなぎ場であったものが、わらじ(旅の下足)の取替から、湯茶の接待をする茶屋となり、だんごや餅・おこしやノンキーを売る駄菓子屋となり、おにぎり・うどんを出す飯町となった。
物々交換は次第に金銭取引となり、干物・塩漬、海草や魚貝類、山菜・穀類・干柿・栗などの果実・獣肉類・コンニャク・そば・食塩・薪炭・しょうけ・つけ木・燈心油、陶磁器の破れ物・繭などが「市」の形をとるようになった。お供日前夜は沢山の露店が並ぶ「市」として賑やかで、狂言(芝居)の催もあっていた。
明治末までは、行商が多く椿油・ローソク・塩干魚・入れ薬・針糸端切の小間物・鍋釜修理の鋳掛・キラズ・豆腐屋が来ていた。
明治大正になると、行商人は「宿」に店を構え常時展示販売をした。農工具の製作修理をするカンジーさん・桶や樽を作るオケタンさん・油屋・ローソク提灯屋・薬屋・小間物屋・文具類の筆屋・金物屋・荒物われ物産・飴オコシのノンキー屋・塩干物の魚屋・染屋・酒場(造り酒屋)・木賃宿ができ、製紙原料の楮を集荷取次ぐ店や油粕・煮干し鰯を取扱う肥料屋・打綿取次の木綿屋・精米精粉のマサツ屋・呉服の反物屋・履物屋・床屋・豆腐屋・煙草屋・砂糖屋などが軒を並べ、それに郵便局・銀行営業所・農会、お医者さんまで出来て山内や近郷からも客が多く「川久保宿」は随分と繁盛した。
昭和の初め、人力車に代って高柳善次氏が「乗合自動車」を尼寺経由佐賀まで走らせた。定員4人なのにいつも6人位おしこんで1日3回往復していた。