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[産業][その他][循誘校区]は3件登録されています。
産業 その他 循誘校区
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佐賀商業会議所の創立
明治29年(1896)4月、大隈重信は母堂法要のため30年ぶりに帰郷した。そのとき、北堀端の大坪氏宅で歓迎会が開催されたが、その席で、大隈重信は『佐賀と実業』と題して演説を行ったが、これに刺激されて、佐賀商業会議所設立の気運が起こった。 佐賀商業会議所設立には、そのころの佐賀市長永田暉明が中心的に動き、佐賀百六銀行頭取中野致明以下24人が発起人に、会議所創立委員に深川、田上、中野、西村、原口の5人が推挙され、創立委員は、たびたび会議を開き、明治29年8月30日に設立認可申請書を提出し、同年9月29日付で佐賀県庁を経て認可され、全国で43番目、九州で5番目の会議所になった。 明治30年(1897)3月27日の議員総会で、初代会頭に原口良輔が、副会頭に西村萬次郎が選ばれた。 明治37年3月には、民間のたばこ生産が禁止されても、県の生産者が困らないように、官営たばこ製造所を佐賀市に誘致する請願運動を決議し、これが誘致に成功したり、佐賀市に漆器伝習所を佐賀市の援助を受けて設置するなどの活動をした。 商業会議所設立後、明治32年には県の特産物である織物・たばこ・素麺の業者組合設立を各業者に呼びかけたりした。明治39年3月から4月まで佐賀市で開かれた九州沖縄八県連合共進会でも、物産展示、販売などを積極的に行った。 昭和3年1月、商工会議所法の実施により従来の商業会議所を、商工会議所と称するようになった。 商業会議所の事務所は、当初佐賀市役所の片隅に設け、明治38年12月、松原町の原剛一家屋に移転し、大正13年3月佐賀百六銀行跡に、大正15年11月、旧古賀銀行馬責馬場支店跡へ、その後旧古賀銀行本店跡を購入し、これを改装して昭和9年(1934)6月、ここにはじめて独立の事務所を所有することになった。 昭和29年(1954)12月に、県庁北に佐賀商工会館が建設されると、そこへ移り今日に至っている。
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佐賀米穀取引所
明治4年(1871)5月、政府はこれまでの米納制度を廃して、金納制度を実施すると、米穀の換金が急がれ、そのため米穀相場を建てる米穀市場の必要性が起こってきた。 佐賀でも明治6年に、正米市場の設立が認可され、二つの米穀市場が業務を行ったが、明治8年に両方の市場とも姿を消した。明治17年9月にも米商会所設立について討議されたこともあったが具体化するに至らなかった。明治20年(1887)8月3日『佐賀取引所設立願』が認可され、これが後年設立された佐賀米穀取引所の母体となった。直ちに設立総会を開き、馬責馬場の鍋島家所有地を借り受け、事務所、立会場を新築することになり、予定どおり明治21年(1888)9月1日に業務が開始された。 明治26年(1893)3月、改正取引所法が公布されると、会員組織の取引所を解散し旧取引所を母体に、改めて明治27年(1894)11月に、資本金3万円の株式会社佐賀米穀取引所を設立した。最盛期の大正9年には売買総高1500余石、仲買人も設立時11人が限定人員の35人に達し、利益配当も年15割に及んだということである。 取引所の立会方法は東京大阪の各取引と同じ競り売買で行われ、売買受渡し倉庫として、下今宿、厘外津、諸富、早津江、寺井、小城、牛津、鹿島、神埼、大川、柳川、久留米、博多、長崎等の倉庫が指定された。また、一説によれば、取引所の米穀物売買受渡銀行に、柳町にあった三省銀行が指定され、この思惑投機者への貸し出しが焦げついて、明治26年に同銀行は休業したといわれている。ところが、明治43年当時の同所理事長牟田萬次郎は、伊万里市生まれで鹿島の牟田家を継ぎ、22歳で県会議員に、また鹿島銀行の創立、『西海日報』の新聞発行、九州鉄道の創設、広滝水力電気株式会社の設立や牛津の肥前板紙、祐徳軌道、佐賀軌道の開通、佐賀綿ネル会社等々に尽力した佐賀実業界の大物であった。また、明治43年には福沢財閥の福沢桃介や、電気の鬼と言われた松永安左衛門等の協力を得て九州電気株式会社を創立しようと奔走し、九分どおり話がまとまり、将来は中央財界に乗り出す構想であったと言われていた。佐賀米穀取引所は、昭和14年取引所法が改められ、全国取引所が日本米穀会社に統合され、米価が一定値段に統制されたため、同年佐賀米穀取引所は解散するに至った。
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佐賀市塵芥焼却炉
佐賀市は塵芥を処理できる量が少なく、一部を土地埋め立てに利用していたが、大変非衛生的であったので、昭和11年3月市議会に建設予算が提案された。審議する中で、延期説が出るなどしたので、調査委員会を設け半年にわたる研究を進め、昭和13年8月焼却炉を建設することになった。焼却炉は、岩本式にして4火床8炉として、昭和13年9月17日、火入れ式を行った。昭和28年にこの施設を改造拡大する計画であったが付近住民の反対で実現できなかった。然し、これまでの焼却炉が次第に老朽化し、十分能力を発揮できなかったので、昭和34年に焼却炉の内部大改造を行い、これまで一日処理能力約20tを30tに引き上げた。その後、高度経済成長とともに生活水準が向上し、家庭から排出するゴミの量も年々増大し、併せて産業廃棄物もまた増加していった。この間、昭和28年には、循誘小学校、兵庫小学校の敷地の埋め立てを行い循誘小学校の敷地1,600㎡は、昭和31年埋め立てによって造成された。また、牛島天満宮裏の低地も埋め立てられた。この他昭和46年には、高木瀬町の市有池沼(蓮堀)を埋め立てて城北中学校グラウンド、佐賀県陸運事務所用地等を造成その他毎年、高木瀬、金立、久保泉、兵庫等の埋め立て可能な場所は、次々に埋め立てが行われた。佐賀市では、『1日8時間で60t、24時間操業で180t焼却することができる江口式連続燃焼型ゴミ焼却炉』の近代的ゴミ焼却場を建設するため、佐賀市高木瀬町に用地を買収し、昭和41年3月に愈々近代的ゴミ焼却場建設に着手し、昭和43年3月に総工事費約16億円をもって工事が竣工した。当初は順調に行ったが、いろいろな原因でゴミ焼却施設の稼働が十分でなかったので、『都市ゴミ破砕固形処理施設の設置や、この施設に連動する『ゴミ高速堆肥化施設(コンポストプラント)』の購入などに苦心した。現在は、嘉瀬町に埋立地を確保し、かつ、焼却施設を54年度から川崎反転ストーカ式ゴミ焼却施設の建設が進められ、55年度に完成し、今日まで運転されている。昭和41年3月に、高木瀬町にゴミ焼却場が新築し移転されたので、田代南のゴミ焼却場は、歴史の幕を閉じることになり、今日、地域の公園として整備されている。