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[産業][農業][川副町]は4件登録されています。
産業 農業 川副町
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汲桶
川副における農業的水利用の特徴は、わが国の殆どの水田地帯のように、高い河川や溜池から水をひいて田をうるおすのではない。そうではなくわざわざ低い堀に水を溜め、高い田にこの水を汲み上げて水をまかなった。つまり「自然灌漑」ではなく「揚水灌漑」なのである。掛け流しではなく汲み上げるのであるから、同じ水を反復利用することになる。 ここでは「水は高さより低きに流れる」 の自然の道理がそのままでは利用されず、「低きに溜めて高きに及ぼす」のである。まことに利にかなわない不自然な水利用であった。しかしそれは川副の自然地誌的な生い立ちがそうさせたので、ここで生きる人々はこの不自然の理にたち向かって生きなければならなかった。利用できる大きな河川や豊かな水源池がないために、個々の水田の側に貯水池としての濠を掘り、そこに溜めた水を揚水して反復利用したのである。したがってここでの問題は如何にして水を汲み揚げるかであった。揚水手段が決定的に重要であったし、その開発進歩は農業生産に大きな影響をあたえた。またこの揚水には多くの労力と時間を必要であったから、汲み上げた水をなるべく有効に利用しなくてはならない。そのため独特の犂と犂耕技術が開発されるのだが、先ずここでは揚水手段から述べておこう。 ではどのようにして低い堀の水を汲み上げたか。知る限りでの古い時代の方法は「汲桶」である。全国的には「打桶」や「ふりつるべ」などいろいろな呼び名があり、佐賀では「釣桶かっぽう」ともよんだらしいが、ここでは一応「汲桶」とよんでおきたい。実はこの汲桶が大詫間の江口佐八氏宅で発見された。おそらく佐賀では唯一のものであろう。桶はごく薄い杉の枚をきわめて巧みに組み合わせて作っており、果たしてこれで水が汲めたかと思われるほどの精巧なものだが、取っ手には紐のくい込んだあとが残っており、その年輪を思わせる。桶全体に深い傾斜がつき、ふっくらとしたふくらみがついている。まさに一つの芸術品をおもわせる出来ばえである。 さてこの「汲桶」は、古い農書にもその図がのっており、堀の畦ふちに2人がたち、各人が2本の紐、(つまり桶の取手の両端からと底からの2本)計4本をあやつって水を汲み上げるのである。底からの2本の紐は桶の姿勢を制御し、うまく水を汲みその水がうまく吐きだせるようコントロールするためのものである。 『地方凡例録』によると、「田毎二水口トテ水ヲ汲上ル所ヲコシラへ置、水一斗六七升入ル薄板ノ底小キ桶口、上下綱ヲ二筋宛両方ニ付、二人水口ノ左右へ分リ、両方ヨリ堀へ打込ミ、水ヲ一盃入レ田へ刎上ル、不仕馴シテハ出来ザル所作也。」 つまり2人で桶を堀に投げ入れては汲み上げ汲み上げして、灌水したのである。1回の汲み上げる量は、せいぜい30㍑@(1斗7升)ぐらいであった。ふつう1度に300桶ぐらいを汲み上げたというから大変な労働であった。当時の日課は、例えば土用前であると、朝4時ごろ起きて日の出前まで一度水を汲み上げる。それから朝食をすませて昼まで田の草をとる。しばらく昼休みをとって再び草を取り、夕方から日暮れまで再び水を汲むといった具合であった。前掲書でもいっているように「甚ダ骨折ルコト也」であったし、また「不仕馴シテハ出来ザル所作」でもあった。大詫間で発見された江口佐八氏提供のこの汲桶は、おそらく江戸末期のものと推定されるが、江戸時代の農民の労苦が、そこには深く刻みこまれている。 江口佐八氏は当時80歳余の高齢であったが、「私はもちろん父も祖父も実際に使ったことはないが、先祖伝来のものだから大事に蔵っておくよういわれていた」と語っていた。踏車がはいってからほとんど使われることはなかったのであるから、この話は真実である。
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足踏水車
「汲桶」はやがて「足踏水車」にかわる。一般に「ふみぐるま」というが、この発明は揚水作業に大きな変革をもたらした。文字どおり、足で水車の羽根を踏んで連続して水を押し上げるので、汲桶とは比較にならぬ能率であった。中国からの輸入とする説もあるが、おそらく国産であろう。江戸時代の著名な農学者・大蔵永常は、その名著『農具便利論』(文政5年・1822年)のなかで、この踏車の発明者を大阪に住む京屋七兵衛と同清兵衛だとし、年代を寛文年間としている。1661年から1672年のことである。もっとも永常の時代の「ふみぐるま」は、今日見られるものとはかなり異なっている。当時は小型で次の3つの型があった。 四尺五寸 (136cm) 羽根13枚 五尺 (151cm) 羽根14枚 五尺五寸 (166cm) 羽根15枚 この小さなのは「踏車」といいながら、実は手廻しで、田面と水面の水位格差が余りないところで使った。足踏用のものも小型で羽根も14〜5枚であった。 しかし佐賀平野のように深く広い堀で、しかも水位差の大きい所ではこれは役に立たない。大幅な改良が必要であった。その改良と製作に成功したのが、筑後の大莞村(現大木町)の猪口万右衛門であったといわれる。この人は元文7年に生まれ文化8年(1739〜1811)に亡くなっている。おそらく1760年代にその改良に成功したものと推定される。前記七兵衛らの考案より約100年が経っている。 佐賀への普及もこれからはじまったと考えていい。たとえば牛津町の商家『野田家日記』(西日本文化協会刊)によると、安永3年(1774) のところに「此の年より水車始まる。以前は釣桶かっぽふなり」と記してある。この「釣桶かっぽふ」というのは「くみおけ」のことである。佐賀での踏車の普及がここにはじまったと考えていいであろう。そしてこの踏車の普及は急速であった。それから25年たった寛永12年に幕府の役人が領内を視察した際の記録『巡見録』によると、巡視の役人が水汲みは「踏車が早く候か打桶が早く候か」と質問しているのに対し、神埼郡東野ヶ里の庄屋が「車にて踏み候が早く御座候」と答えている。だからこの寛永の時期はすでに「踏車」が急速に「汲桶」を駆逐して普及した時期と考えていいであろう。 筑後で開発された踏車は、今日見られるものとほぼ同一のもので、五尺五寸(166cm)と六尺(181cm)の2種類、羽根も17枚から18枚であった。一枚の羽根はおよそ五升(9㍑)ほどの水を汲み上げるから、その威力は当時としては革命的なものであった。揚水に悩み抜いた佐賀平野の農民がいち早くこの踏車を導入したのは当然であろう。 ただ問題は価格であった。当時の資料によると踏車1台の価格は60匁。中古品でも35匁であった。60匁というと当時米一石の価格である。四斗俵で二俵半。かなりの値段である。千歯が1台12匁。その千歯でさえ購入できなくて、なかには自分で竹子歯を作って使用したものが多かったという。その千歯の約5倍というとかなりの高価格であったろう。それでも無理算段をして踏車を購入したのは、少しでも揚水労働を軽減しその能率をあげたい一心からであった。おそらく米二俵半分の踏車の代金をひねり出すのに、当時の農民は四苦八苦したと思われる。 さて、こうして登場した踏車は、江戸中期の後半にかなりの勢いで普及した。踏車はもっぱら木工細工が古くから盛んであった大川で生産され、筑後川を渡って佐賀に持ち込まれた。鍋島領内で生産されたのはかなりのちのことになるようである。明治期になっても、踏車を購入するため筑後川を渡り、それを荷なって帰ったという話は、平坦部ではよく聞かれる。犂の職人は古くから村々に点在していたが、どうも踏車の製作はこちらでは行われていなかったと推定されるのである。 さてこうした踏車も、なるほど「クミオケ」に比べると能率はいいが、しかしいぜん、苦汗労働であることにはかわりなかった。とくに盛夏、焼けるような太陽に照らされ、朝から晩まで水車を踏まされるのは大変であった。この揚水労働は明治になってからはもちろん大正期に至るまで延々と行われるが、当時の踏車の苦労をある古老は次のように述べている。 「普通水車ヲ一台、盛夏ニナッテ水位ガ下ルト二段。旱バツノ時ハ三段ニイタシマンタ。三段ニ水車ヲカケマスト普通夫婦二人ノトコロデハモウ一人誰力来ナケレバヤッティケマセン。二段ノ場合デモ下ノ車ガ水イッパイニツカッテ居レバ楽デスガ、羽根ガ半分位シカツカッティナイ時ハ大変重イノデ、学校二行ッテイル子供ガ帰ルトコレヲ前ニノセテ踏マセマス。ソウスルト大分楽ニナルノデヨク子供ヲノセタモノデス。処ガコレガ毎日ツヅクノデソノ骨折りハ並大抵ノコトデハナク、平坦部ノ農家ニハ嫁ニハヤラヌトマデイワレマシタ。ソレハ傘ヲサシテ子供マデ水車ヲ踏マセナケレバヤッティケナイカラトイウワケデス。本当に水車踏ミハ大変ニキツイ仕事デ、ソノタメ冬中二身体ヲツクッテオカナケレバ水車踏ミハデキマセンデシタ。コノタメ薬モ沢山用意シテオキマンタ。烏犀圓ノヨウナ精分強メノ薬ガナイト身体ガモタヌノデス」 踏車労働の苦しさを語って余りないであろう。文中の二段がけとは、盛夏に堀の水位が下がって踏車の揚程が足らなくなると、2台の踏車を用意して揚水することを指す。つまり堀の壁に水の溜まり場をもうけて先ず1台でここに汲み上げる。この中継の溜まり場を「チヨク」あるいは「ボク」といった。そしてさらに別の1台でこれを田に汲み上げるのである。古老がいっているように、2台の水車と2人の労働力が必要となる。 さらに旱ばつとなって水位が下がり、2段がけで揚水できなくなると、水車3台をかけなければならない。これを3段がけといった。いうまでもなく3台の踏車と3人の働き手が必要であった。平坦部に多くの年雇がいた理由の1つである。 以上のように川副では、農業用水はかけ流しの自然灌漑ではなく、低い堀からわざわざ汲み揚げた。したがって水は大変に貴重なものであった。かけ流し地帯では想像もつかない手間暇がかかっているからである。
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犂耕
いったん汲み上げた水を、なるべく長く田にとどめるためには、第一に田の耕盤を固く締めて漏水を防ぐことであった。これは犂を用いて行った。 一般に馬耕は水のはいらない乾田(からた)を、犂で耕起・反撃せるのがごく一般的である。わが国で広く行われてきた馬耕、あるいは牛をふくめた畜力耕はすべてそうであった。ところが川副をふくめた佐賀平坦の馬耕は、もちろん乾田(からた)での耕耘を行うが、それに加えていまーつ重要な床締めの作業を行った。これを乾田馬耕と区別して水田馬耕とよぶのである。江戸時代から明治にかけて使用されたわが国の犂は、一部の例外を除いては犂床が50cm以上もある長床犂であるが、この床締めに使う犂はそれよりやや短めで40cm程度。中床犂といっていいであろう。床幅が他の犂床より広いのは耕盤との接面を考えてのことである。この作業をおろそかにすると、汲み上げた水は表にして堀に還流してしまう。そればかりでなく、時として田の畦もろとも堀の壁を崩してしまう。はげしい漏水はこの意味で何より注意しなければならない。そのためにもこの作業は周到な反復作業によって、完ぺきに行う必要があるのである。 以下明治から大正期にかけて行われた川副一帯の馬耕について述べておきたい。この地帯の馬耕は、3本の犂、1本の馬鍬を使いわけて行われる。3本の犂は「はえ犂」、「くれがえし犂」、「みずた犂」の3本である。「はえ犂」は「うーすき」ともいう。いずれにしても典型的な長床犂で、その長い床は50cmに及ぶ。面白いことにこの犂床はペタリと耕土に密着せず、操作する人間の側から見て、右肩が浮き左の端しか土に着かない。一見不安定なようだが、馴れると操作はきわめて楽で、熟練者は片手運転も可能という。ただ名前のように「はえ」ており、長くねそべったように長い。 したがって方向転換のさい犂き残し部分がでるのと、転換が容易でない欠陥があった。また長床犂は当然のことながら深耕はできず浅耕であった。この犂は稲刈りあと直ちに「ひらすき」と称し1〜2寸幅で細かく耕土を切り裂いていく。まるで羊羹を切っていくようだという。垂粘土壌で、しかも稲刈り直後でかなり湿潤であるか、裏作に備えて耕起し乾燥するのを待ちながら、麦播種にそなえるねらいがあるのである。このあと砕土作業にかかる。道具は馬鍬と「くれ割り」である。先ず馬鍬を「タテ」「ヨコ」に入れ大きな土塊を砕く。この作業を「まがかき」という。若干の落ちこぼれがあるから、これは「くれ割り」(「土わり」ともいう)で叩いてつぶす。以上の作業はいわば「ひらすき」で畦が立っていない。裏作を行うには畦を立てなければならない。 畦立ては犂を「くれがえし犂」にかえて行う。大きな反転板が耕土を大きく犂き返し畦をつくる。再び播種にそなえて「くれ割り」で畦面を細かく叩き砕土、均平化をはかる。そして播種する。しかし当時は横畦であったから、鍬で畦に対してヨコに浅い溝を切っていく。そして麦種を播きその上に堆肥をふって作業を終わるのである。 春の馬耕は麦畦くずしからはじまる。「くれ返犂」を用いて麦刈りあとの麦畦を左右に犂いて崩す。ほぼ崩し平畦になったところで灌水する。もちろん踏車である。冬場に田は乾燥し耕土深く亀裂がはいっているから、この作業は雨を待って行う。雨で水溜まりができるくらいの状態でやらないと、いくら灌水しても水は亀裂をとおして流下してしまう。雨水と汲み水の両者で荒水をまかなうのである。そしてただちに床締めを行う。
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ゴミクイ
クリーク農法のいま一つの特質は、堀の泥土揚であろう。堀には年々泥土が沈澱する。この泥土を「ゴミ」という。「ゴミ」を汲み上げる作業だから「ゴミクイ」とよぶ。ただ堀のゴミは誰が揚げてもいいというわけでははない。堀の水はそれに面した田主が、自由にいつどんな道具で汲み上げてもいいが、泥土にはその所有主が決まっている。一般に佐賀平野では東西にのびる堀は、北側の田主にゴミの所有権があり、南北の堀では大体西側にそれがある。しかしこれは原則でその後の事情でかわっている場合も多い。よほど広い堀の場合には中央で折半という事例もある。だから金肥がまだ少ない時代には、この泥土をもつ田とそうでない田は、地価に大きな差があったという。川副の場合もそうである。