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[民俗・芸能][民謡・方言][本庄校区]は4件登録されています。
民俗・芸能 民謡・方言 本庄校区
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本庄のわらべうた
誰もが子どものとき歌った童謡の数々も今は時代とともに忘れられてしまった。正月を迎えるわらべうたを記しておく。 「正月さんの来んさっ時や、何ん持って来んさっしょ、つんのはにもろもき、橙ところや俵箸、蜜柑に栗々、吊柿や」 蛍籠を提げ、笹竹を持って、宵闇の川岸の辺を走りまわった「蛍取りの唄」がありました。 「ホ、ホ蛍来い、あっちの水ァにがいぞ。こっちの水ァ甘いぞ。ホホ蛍来い」 「ホ、ホ蛍にゃ水くりゅう、堀の水くりゅうか。川の水くりゅうか。堀の水くりゅうよりか、川の水くりゅうよ」 7月の七夕さんの唄もよく歌った。 「七夕さん、七夕さんたなから落ちて腰打って痛さこらえて西瓜半分」 昔は堀に鷭(ばん)やカイツブリが水藻のなかに泳いでいるのをわらべ同士でからかった。 「きゃァつぐろの頭に火がついた。ブルッとすんでチィ消えた」 鞠つきの唄も色々文句がある。 「からたち、から梅、からすが一羽止まった。この手鞠ぁ、誰にあげましょか。花の○○さんにあげましょか。ヨウ受取んさいの」 名を呼ばれた娘は鞠を受取ったら直に「ヨウ受取りました」と続けまた前の唄を歌う。 正月14日の土龍打ちの唄。 「長どん、長どん山へ行くけんこんかん、鉈(なた)も包丁も持たんこんな貸そだん、貸鉈イヤ、イヤ十四日の土龍打ち」(※以下、繰り返し。)
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民謡菱やんよう
「菱やんよう」 佐賀の新民謡。作詞者・豆田光夫、作曲者・原岡研一。 菱やんよう 菱やんよう 菱を売る娘の呼び声に 呼び声に 菱も食べたや 顔見たや 顔見たや 菱やんよう 菱やんよう 菱売り娘は村娘 村娘 年は二十歳か 品のよさ 品のよさ 菱やんよう 菱やんよう 菱の秤は山秤り 山秤り 可愛い上目で ちょいと見る ちょいと見る 菱やんよう 菱やんよう 菱を売り売り帰り道 帰り道 十五畷で 待つというた 待つというた 原岡研一は、本庄町寺小路出身で音楽教師。昭和23年(1948)に成章中学勤務。この頃から作詞者・豆田光夫とのコンビで「菱やんよう」をはじめ10曲の作品を生み出した。この「菱やんよう」は、当時の風情を感じられる佐賀地方の代表的な民謡。
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民謡ひし取りのうた
「ひし取りのうた」 ひしの稔りは あたりの年か 堀にひしの葉 たったげな ひしは大菱 久保田の菱か 味は本庄の中島か 菱の実をとろ はんぎでとろか 堀にやんまが すいと飛ぶ ひしも待つのか その手を待つか 村のむすめの白い 手を 菱はにょっきり なぜつのたてた 若い二人に やいたのか 若い二人は 佐八とお米 半かげお月の 出たよいに 半かげお月も きき耳立てた ひそひそ話は 堀の岸 菱の稔りは あたりの年か ひそひそ話に あてられて
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本庄村史蹟めぐりの歌
十五畷の戦跡 天文二十二年春 十五畷の朝ぼらけ 星影淡き陣営や 空しくあせし旗幟(はた)の色 うつらう花と諸共に 益荒男(ますらお)逝きて四百年。 戦塵の跡偲びつつ 行けば程なく産土(うぶすな)の 神おはします宮ところ いつきまつれる淀姫の 深き恵はとこしへに 郷(さと)の栄や守るらん。 群立つ杉に風すみて 霊香そぞろ身に迫り 苔むす石碑往く年の 歴史(ふみ)語るかな高伝寺 御霊廟(おたまや)まもる芝草に 遠き者をたづねてん。 勇将鍋島直茂公 剛勇果敢今山に 勝鬨(かちどき)あげし勇将の 産声あげし円塚よ 樹々の緑も香はしく正義の烈士育みし 名もなつかしき西河内。 都を遠く西海の 不知火もゆる火の国に 掩(おお)へる雲を払はんと 龍造着きて二千歳。 雄々しき御名を得給ひし 尊の雄姿偲ばずや。 旗幟大内幟 肥前三十三ヶ所の 十八番の札どころ 旗幟の名残る観音寺 星霜茲に幾年か。 名に負ふ松の深緑 昔の夢や結ぶらん。 遠き昔を想ふ時 血潮は胸に躍るなり。 父祖の教を身にしめて 希望に生きん若人(わこうど)よ 誉と共に伝へなん 千本松の館跡。 柳河攻 慶長五年 鍋島直茂・勝茂父子 立花宗茂を討つ 妙玉寺 石井茂賢其他の墓のある所 柳河攻の激戦に 誓ひし誠一筋を 貫き通す五十年 君に殉ぜし十八士。 花と散りにしもののふの その名伝ふる妙玉寺。 野辺の千草に秋更けて よせ来る嵐すさまじく 飯盛城の炬は消えぬ。 物具堆みて焼きすてし 名も灰塚の跡なれや つはもの共が夢いかに。 争奪やまぬ戦国に 我が家龍氏守らんと 九十二年の生涯を 捧げ尽くししその苦節 女の身には重かりき 尼公偲ばん慶誾寺。