検索結果 RESULT
[民俗・芸能][民謡・方言][循誘校区]は3件登録されています。
民俗・芸能 民謡・方言 循誘校区
-
おりきんばっちゃん
一 おりきんばっちゃん どけ行くかんた 目ぐすいびんばさげて つっくるびーて 鼻たれて 私しゃ通い小路(くうじ)のぇ 黒田さん 目のようじょう いっからや おとちぃから そりゃ又きつかない とこ 電信柱に 頭入(ずくにゅう)どんば 打ったくらんごとない 二 おりきんばっちゃん どけ行くかんた しっきれジョウリひぁーて じんぱちがさどみゃ ひっさげて 私しゃ 娘がえぇ 田植がせぇに いきよったい 何で行く あゆうでさい そりゃ又きつかない とこ うまんビーどんに トイコのふしどめゃ しいちかれんごとない
-
蓮池節
蓮池の在郷辺から 糊つけ着物に 小倉の帯しめ 願正寺参りさす時ゃ ちょうどさいば藁人形 一で赤いもんな 法印さんの衣か お稲荷さんの鳥居か 朱か紅か お猿さんのお尻か 酢海老のいでがらか 次に白いもんな 豆腐に初雪 源氏の白旗 横丁のまんきやの白壁に お姫さんの内ももど 高砂のじさまとばさまが 小松の木蔭で ロすいたのを 鶴と亀とが 上下からのぞいて 若い衆は何となさるかい お前や忠信さんかい よもや狐じゃあるまいけれども この鼓をぽんと打ちゃ きゃんと鳴く 静は踊り出す 蓮池町は戦後の町村合併により現在佐賀市となっているが、市の中心部から約6キロ、佐賀平野の東南隅、筑後川の下流域の水郷地帯の中に位置する旧城下町である。 藩政時代は蓮池鍋島といわれ、佐賀藩36万石の一支藩であった。したがって葉隠で代表される旧藩時代のおもかげが、今も町並、風習、言葉づかい等に色濃く残っている。もともと佐賀地方には面浮立、田楽等の民俗芸能か、箪笥長持唄、万才くずし等の祭祝行事とむすびついた民謡のほか、特にすぐれたものがないのは、佐賀藩の方針としてきわめてきびしい勤儉令を実行し、歌舞音曲や芸事は軟弱とする気風があったからだといわれる。蓮池も他の鍋島家中と同じく、質素儉約、文武両道の奨励の気風の中にも仲々の芸所として知られている。その蓮池町に大正から昭和にかけて樺島政市さんという盲人の三味線上手があったが、妻女のおしげさんに手をひかれて門付けをして人々から大変したしまれた。この政市さんがつくったのがこの蓮の池節、水田耕作を主とする農民生活と古雅な城下町の人情、風俗をおどけた調子で風刺描写して大変よろこぼれたそうである。
-
「蓮池節」と「おりきんばっちゃん」-願正寺参りのうた
願正寺は江戸時代を通じ、佐賀藩全体を束ねる触頭(ふれがしら)として、藩や本願寺との関わりも深く、また、信仰的にも中心寺院として藩内一円から多くの参詣があった。「願正寺に参れば御本山に参ったも同じ」といわれ、御正忌報恩講や春秋の彼岸法要の折は、たとえば諸富の街道は朝早くからカラカラという下駄の音が途切れなく続いていたそうである。脊振の山などから一晩かかって歩いてきていたという寺の参道には念珠などを売る店も立ち並び賑わっていた。蓮池方面からの願正寺参りを面白く歌ったのが蓮池節で、佐賀お座敷歌として花柳界などで流行した。作者は門つけをしていた樺島政市さんで、明治、大正、昭和と、蓮池から佐賀に出てきて、三味に合わせて歌いつづけていたそうである。また、「おりきんばっちやん」の民謡は、本来、一番だけが伝わってきたが、近年、願正寺参りの歌詞なども加わり、ユーモアたっぷりに歌われている。どちらも踊りの振り付けがされている。 なお、昔は交通の便もなく、地方から佐賀の街に出ることも少なく、願正寺参りなどで佐賀にきたついでに呉服ものを買う人が多く、門前町として、呉服屋が多い呉服町などが形成されたといわれる。