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[民俗・芸能][祭り][久保田町]は5件登録されています。
民俗・芸能 祭り 久保田町
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春祭り
陽春の季節に行われる神社の祭りや集落で行う祭りで、農作業の開始にあたり農事が順調に進行することを祈願する祭りであるが、春祭を行う目的の1つは、花見を兼ねているように農作業が忙しくなる前の一種の慰労行事である。ご馳走や甘酒を持ち寄り、青年会が中心となって芝居や狂言、舞踊などが演じられていた。 漁業者の祭りも同様の意味合いがあり春の慰労行事である。 大立野東の沖祗神社の春祭りは集落総出で、おこもりをし、その後中副の龍宮社までお参りする慣習があった。久富東の御髪社では旧暦4月8日には、漁業関係者によって海上安全と大漁を祈願して祭りが行われる。
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川神祭り・ひや〜らんさん祭り
4月から5月にかけて行われる。田植えが近づき、堀や川の水が満たされると、子どもたちの水の事故も増えはじめるので、水への感謝と水難防止の祭りが行われる。 藁で作った舟や円座になまずや鯉を描いた幟を立て、なますや豆腐などの御馳走を乗せて、堀や川に流す。ドンコに藁舟を引かせることもあった。近所や親戚の子どもたちを招いてお茶講をして1日中楽しく過ごしていた。 丁永においては、4月13日に藁で円座をつくり、円座の中に、ご馳走をのせ花を挿し線香をあげ、西丁永堀に浮かべて、「川にひゃーらんように(はいりこまないように)」と願い、夕方、若宮社に各家でつくったご馳走を持ち寄りお籠もりをしていた。昭和55年ぐらいまでしていた。 中副の龍宮社は、ひゃーらんさんと呼ばれ水難よけの神として信仰されている。もとは、旧暦3月13日から1ヵ月間行われ近郷近在からの子ども連れの参拝人で賑わっていた。石祠の前にはのぼりが立てられ、仮小屋で神札の領布、駄菓子やラムネ、名物のトコロテンなどの店がでて、掛け小屋の舞台で芝居やにわかなどが上演された。境内にはむしろを敷き、持ち寄ったご馳走をひろげ酒を酌みかわした。
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田の神さん祭り
田植え始めに稲作を守護する田の神を迎えて豊作を祈願する祭りである。ニワナカの荒神の前に臼を置き、その上に箕を乗せて祭壇とする。箕の方向はその年の恵方とする。苗代からとってきた3把(2把というところもある)の早苗と、ネコブ(根のついた昆布、塩ワカメというところもある)を乗せた丸い大きな握り飯・尾頭つきの魚・ナマス・煮シメなどを供え、柳の木でつくった箸を添える。ネコブは苗の根つきが良くなるように、柳の箸は柳腰で田植えがはかどるように、腰が痛くならないようにとの願いが込められているという。祭り日は一定しないが、酉の日に行うという所が多い。「鶏のようにさばけるように」との願いがあった。逆に丑の日はさばけないという理由で避けられた。尾頭つきの魚は、1番の働き手、馬使いが食べるものとされている。祭り終わった早苗は荒神棚に供えておき、雷が落ちたときに、苗を投げるとすぐに火は消えるという。
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祗園祭り
夏祭りの代表は祗園祭りである。古く、疫病をはじめ種々の災厄をもたらす原因を、この世に恨みを残していった人々の荒々しい霊魂、すなわち御霊であると考えた。その御霊を祀り鎮める御霊会が祗園祭りの始まりと考えられる。各地の祗園祭りでは鉾や人形などで飾られた山車が囃子にのって賑やかに巡行するという形をとってるものが多い。小城の須賀神社の祗園祭りなどがそうである。 久保田宿の祗園社では旧6月15日に祭りが行われていた。昭和37年ころまでは歌や踊り、にわかなどと多彩な余興が行われていた。町内はもとより近隣の町村からの参拝客で賑わった。その後、祭りの推進役である 青年の不足により中断をし神事のみ続けられていたが、昭和58年に復活し、子ども神輿などが行われていたが、再度中断の危機がせまっている。
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大祭り
12月にはいると、各集落では収穫も終わり1年間無事に終えたということで総仕舞いの祭りが行われる。老若男女、一家総出で当番の家に集まり朝昼夜の食事を共にし親睦を深めあった。現在は簡略化されて行われている集落が多い。 丁永では若宮さん祭りとして12月13日に行われていた。祭りの前日に各戸よりもち米を1軒に5合、1人に2合づつ寄せる。祭りの日は早朝から赤飯を蒸し、ハクサイやタカナのオコモジをつくり、塩イワシを焼いて朝食にする。夕食はサシミに混ぜご飯をつくる。 福富では、12月15日に八幡神社で祭りが行われる。神酒・魚・ごっくうさんを持って、香椎神社に参拝を済ませた後、八幡神社で男性はナマス、カケアイなどを肴に酒宴をする。