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[民俗・芸能][祭り][西与賀校区]は6件登録されています。
民俗・芸能 祭り 西与賀校区
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路傍のエビス祭り
今津上の80戸によって管理され、2月と7月に祭りが催されている。 7月20日の祭りは、エビス像の周囲に笹竹を立てて〆縄を張り、野菜、鯛1匹、清酒、菓子等供え、夕刻、神官の祝詞、役員等の玉串奉奠(ほうてん)で式を終わり、後町区の人々がお参りする。エビス像の側に、婦人たちによって煮豆が準備され、参拝者に配られる。 以前は、祭りの世話は青年団が受け持ち、各戸には献燈をつるし、エビス像付近には夜店が立ち並び舞台をたて寸劇や踊りが催されていた。
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権現さん祭り
平松南公民館の西に熊野大権現が祀られている。伝えによると明治14年、三重県の伊勢神社へ参宮のおり、和歌山県の熊野大権現へも参詣し、帰国後、熊野大権現を当地へも祀ったともいわれる。 同所には他に、天満宮、金毘羅大権現、大神宮合祀塔、庚申塔や石仏等が祀られている。 平松南では毎年1月第2日曜日に大権現にお供え物をし、本庄神社の宮司を迎え、子どもから大人まで集まり神事を行っている。
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若宮社祭り(祗園)
(7月) 夏祭りを祗園というのは佐賀県内を通じて一般的である。 神社の祭り事をつかさどる氏子はそれぞれ1年間を担当する。 当日は青竹を切り鳥居の笠木と柱に結びつける。柱には本庄江より刈り取った男の葦を柱を囲むように結びつける。 氏神へのお供え物は、鯛、塩、大根、人参等、祭壇に清酒を供える。 当日は午後6時本庄神社の神官が訪れ、氏子の前でお払いをして祝詞をあげる。その後地区代表による神殿に玉串奉奠し、祭典は終わる。 境内にはテントが張られ子ども達親子による豆が配られ舞台ではビンゴゲームが行われる。 かつては、大きな舞台が作られ男子青年団による佐賀にわか、即興にわか、女子青年団による舞踊や演劇が催され夜店が立ち並び賑わいをみせていた。今日では子ども達が施主となることもあって豆祗園などと呼ばれ、町区の災難のがれ、家内安全、疫病退散が主目的である。 (注)「祗」の左部分は「ネ」で表記される。
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百手祭
(11月) 神社の鳥居に男の青竹を切り藁を編んで鳥居に飾る。弓、矢、的を作る。氏神への供え物として鯛、大根、塩、果物、榊、神酒を神前に供える。当日は、神官が朝早く訪れ、お払いをして祝詞をあげる。境内に備え付けた直径約40cmの藁で作った丸い円座、つまり的、1m離れて鬼の字を3か所書いた竹で編んで紙を張った的にまず神官が弓矢を放つ。次に長老の順に矢を放ち命中すると氏子より歓声があがり町区の災難がのがれるという。 かつては、青年団が井戸水でみそぎをして祭りに参加したが、今日ではその姿を見ることができない。
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大神宮祭
(2月) 若宮社に合祀されている大神宮は、伊勢に鎮座する皇大神宮を尊敬する人々によって構成された講組織で、伊勢講ともいう。 伊勢に参拝するには多額の費用と長い年月を必要とする。そこで講を組織しそれによって費用を捻出し、代表として伊勢参宮をし、分神を持ち帰って祀る。大きな自然石に次のような銘が刻まれている。「天照皇太神宮 寛文11年(1671)」 大神宮の碑石に藁で編んだしめ縄を飾り鯛、塩、大根、神酒を供える。当日神官は早朝訪れ氏子にお祓いをし、町民の災難避け等の祝詞をあげる。それが終わると代表が玉串奉奠に移りその後参拝者は神酒とおなますをいただき健康と家内安全を祈る。
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初午祭
(3月) 天正年間(1573〜1592)大宰少弐が龍造寺康家に命じて龍泰寺小路に築城するにあたり、小津江のにぎわいが城にあまり近いため、料理屋、宿屋の比較的多かった東岸の家を今の地に移させ今宿と名付けた。それにならい、港も今津と名付けられた。このように今津は江戸時代より商人の町として栄えた。 この初午は、商売繁盛、家内安全や大漁、海上交通を祈願する。 初午は鹿島市祐徳稲荷神社や唐津市鏡山稲荷神社など県内各地で行われている。当地にも江戸時代に稲荷神社が祀られ今日に至っている。祭典の内容はだいたい大神宮祭と同じで祝詞は午後6時に行われる。