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[民俗・芸能][行事][本庄校区]は19件登録されています。
民俗・芸能 行事 本庄校区
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本庄むかしむかしの年中行事
正月松の内には懸け薦を釣り、門松に似せる(これは使用後に巻き俵として使用した)。 2日には屋敷田に鍬入れと称し、譲葉(杠:交譲木…トウダイグサ科の常緑喬木。秋に旧葉は暗緑色となり新葉が生長して旧葉が落ち譲るのでこの名がある)を立てる。 6日の朝には寺子屋の子弟は、始筆に吉書と称し「嘉辰令月歓無極万歳、千秋楽末央長生殿裏春秋富不老門前日月遅」等の筆を試み歳徳神(その年の徳神でこの神のある方を明の方または恵方といい万事吉とする)へ供えた。 7日の朝は、数日前より建てた2間4面位の藁小屋を暁天に焼き、歳徳神へ供えた。吉書を青笹付の竿頭に結んで炎上させ子ども達の楽しみであった。この日は「叩き菜」と称し、7種の蔬菜を叩いて汁となし、また歳徳神へ供えた餅を7か所(ホンゲンギョウ)焼き、同夜は、七福神の装いで豆をまいた(今は節分で行っている)。 11日には、天照大神宮へ参詣し、大福帳を求め、十一日祝と称して、祝宴をなした。 14日の晩には、子ども等が集り「土龍打」といって小竹の先に藁を束ねたもの(焼鮒挿の如きもの)を持ち、各家を廻り「なーれなーれ梅の木、ならずの梅をばなれとぞ祝うて、千なれ、万なれ、朝なれ、人のチギッ時キャー堀の上ナーレ。おいがチギットキャ畑の岸ナーレ。十四日の土龍打ち」と唱えて餅をもらって歩いた。 20日には、二十日正月と称し、忌明のものや歳なみの悪い者は本日をもって更に越年の式を挙げる風習があった。 2月の初午の日には少女等糸柳の枝に大麦やカンナ草及び髪を少しばかり紙に包み、水引にて結び「この川や、この川や、広さ深さは知らねども、流るる先まで延べや黒髪、黒髪」と歌い、流れ川の橋頭より流した。 3月3日は桃節句として雛飾りをなし蓬の餅を供え、白桃の枝を挿して生け、少女の将来を祝ってやった。 4月8日には、各寺院にて華堂をこしらえ、下には盥(たらい)の中に釈迦の像を置き、甘茶を注ぎ、各家においてはその甘茶を受けて頂き、また蚊帳に注ぎ、家の周囲にまいて悪霊を防ぐ祈りをなした。 4月19日・20日は、高傳寺の釈迦堂祭で代官所より多くの役人が出張して、華美な風習を矯正する目的をもって、絹の着物はもちろん、日傘や絹物交りの羽織まで取上げて節倹法を実行させた。当月は川神祭と称えて藁にて円座及び食器を拵え、御供をあげ鯰(なまず)・鮒などを画いた幟を立て流していた。 なお当月は挿秧(水田に早苗を植えること)の始めに田の神祭りといって握り飯に、芦の葉及び蔦葛の葉を覆い農神に捧げた。 5月5日には紙幟(木綿織りは贅沢であると禁止されている)を立て、男子の成人を祝った。 当月の末から6月の初め頃、晩稲の挿秧を終え「早苗堀」といって手造の餅、饂飩(うどん)等で夏毛取り上げより晩苗植付までの慰労の宴を開いた。6月は各神社において、祇園会を子ども達は千燈籠といって些少の銭を貰い、菓子果物等を買い食う風習があった。 7月の盆祭りは別に変りはないが、新喪の家では7月中数間の竿頭に紅の燈籠を掲げた。 8月15日夜は芋明月と称し、男子13歳の者の運試しをなした。当夜の晴曇雨に一生の吉凶を占った。 9月15日夜は、豆明月と称し、女子15歳の者に晴曇雨により一生の運試をなし、また明月に対し薬袋を縫う恒例があった。 10月15日には千本松の直茂公御胞衣塚畔において鍋島家より、4間に10間の仮家をこしらえ村中の男女老若を集め、赤飯の馳走をなす恒例があったが、維新後に廃止となり、地元主催となり祭事を営み鍋島家を賓客に招いた。 11月は子ども等が集まり、産土神社へ〆飾りをなし、薪を焚き通夜をなし、〆飾の材料にて正月の「ホンゲンギョウ」を作った。また11月は与賀神社、本庄神社へ締元といって大名行列を真似て盛大な神事をなしていたが明治4年(1871)12月本庄神社は郷社になり、末次等は与賀神社より分離して、本庄神社となり、11月28日をもって祭日と定め、氏子が各区順番に浮立、角力、手踊等を奉納し盛んになった。 12月には御本丸三の丸その他の松飾用として大〆縄勝り藁等を本庄本村より納付した。
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豆祗園
村々に祀る石祠や地蔵などを清めて大人達へ参拝を勧め、煮豆と引替えに賽銭を貰い、菓子や金を分配しあう子ども達の催しである。
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正里の構成と行事
正里区は500年以前に干拓新地に入植し、住みついて出来た集落である。 西は本庄江湖のほとり八龍神社、東は八田江湖のほとりに粟島神社(共に海神)を祀っている。この両地を結ぶ八田、袋、末次、正里、八龍、今津の線が当時の海岸線であったと推察される。 南に流れる呑郷の堀底から、泥土揚げの時には有明海の貝殻が砂中に広がっているのがわかる。 天明年間の地図によれば、正法寺外一庵があったが、現在は墓だけが残っている。 正里区の出入り口には、皇大神宮、お地蔵さん、庚申さん、観音さんを祀って、疫病、災害の侵入より守っている。
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正里の行事
月祭:三夜待(23日)、六夜待(26日) 年祭:大般若経会(正月11日)、伊勢祭(12月26日)、権現祭(12月15日)、天神祭(12月25日)、村勘定(1月)、釈迦堂祭(4月19日)、川神さん祭(春耕前)、田の神祭(田植え直前)、節句(3月3日ひな祭)、鯉幟(5月5日)、七夕祭(7月7日)、祇園祭(夏祭)、お盆祭(8月13日〜15日)、供日(春秋の氏神祭)、日峰さん参り(春秋)、金立山参り(正月)、文殊参り(正月)、お経参り(川干の頃)、お不動さん参り(正月縁日)、清水観音さん参り(正月と夏の縁日) 西分の権現祭は福山晴大家に祀ってある熊野三所大権現が祭神である。 寛政11年(1799)勧請したもので、正里西分の鎮守神として夏の祇園祭には、提灯をともし供物をし参詣人に煮豆をくばり、無事息災を祈る行事が今も続いている。 石祠の後の楠は樹齢400年以上と推定されたが、明治25年頃切り倒されて今の楠は2代目である。 西分観音堂に祀られた石仏7体のうち「目の地蔵さん」の謂われは、昔は疾目等の流行目が多かった。 眼病になると「め」という字を半紙に8字書いたものを奉納し、「“八ん目”山さんいけ、しっきゃあ、ほーいやれ。」と3度言って、供物をなし、全快を祈ったものである。 「日晴し(産の忌みがあけること。男子30日目、女子は33日目に宮参りをする)観音さん」は、葬式等の不幸ごとの帰りには、この観音さんに立ち寄り、「日晴し」を祈願し自宅へ帰るという風習があった。また「子安観音さん」としてお母さん達の信仰が厚い。 その他、「北向きの地蔵さん」や「千手観世音菩薩」、「不動明王」、「弘法大師」等が堂内に祀られて崇敬されている。
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文殊さん参り
(正月) 文殊宮は、大和町上都渡城官人橋付近にあります。真言宗御室派文殊院と言います。「もいっさん」と呼ばれ、祭神文殊菩薩は知恵の神様として知られ、受験期には合格祈願の参詣人で賑わいます。
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お不動さん参り
(正月縁日) 臨済宗南禅寺派萬壽寺は、「水上のお不動さん」と呼ばれ信仰されています。(実相院と同じに大和町川上にあります。)
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金立山参り
(正月) 金立神社の祭神は保食神(うけもちのかみ)、罔象売女命(みずはめのみこと)、徐福であります。創建は孝霊天皇の時代(290)と伝えられています。 徐福は秦(中国)の始皇帝から不老不死の薬草を求めて派遣され文化をもたらしたので、神として合祀したと言われます。 金立神社は豊作を祈る神として、藩主鍋島家の雨ごい祈願が行われました。 例祭は11月20日。春祭は3月15日。50年ごとに「お下り」という神幸祭があり、有明海の沖の島参りが行われ、祭りには鉦浮立が奉納されます。
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清水(小城市)観音さん参り
(正月と夏の縁日参り) 清水(小城市)には天台宗清水山見滝寺宝地院があります。由緒書によりますと延暦22年(803)に桓武天皇の勅命で聖命上人が開基しました。国家鎮護の道場であります。寛永4年(1627)に佐賀藩主鍋島勝茂が観世音菩薩を勧請して再興しました。東方に清水の滝があり、滝の傍らにある碑は、藩主鍋島宗教の病気平癒の祈願のため滝に打たれ、凍死した藩士倉永清雄をたたえたものであります。この碑は天明7年(1787)に建立されたものであります。
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大般若経会
(正月11日) 僧侶が大般若経600巻を読誦(どくじゅ)し、世話役が神酒や供物を用意する。転読が終われば村境に護札を立てて回り、村中の安全を祈願しました。
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土龍打ち
子ども等が集まり1月14日の晩には小竹の先に藁を束ねたものを持ち、各家を廻り、「なーれなーれ梅の木、ならずの梅をば、なれぞと祝うて千なれ、万なれ、朝なれ、人のチギッ時キャー堀の上ナーレ、おいがチギットキャー畑の岸ナーレ、十四日のモグラウチ」と唱えて、餅を貰って歩きました。
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ホンゲンギョー{左義長(サギッチョ)、ドンドヤキ}
1月7日の早朝に青竹と藁で作った小屋を焼く行事。この時正月の松飾り、〆飾り、古いお札など前年のものをこの火で燃やしました。また、この火で餅を焼いて食べて、無病息災を祈願しました。
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節供(せっく)
(3月3日ひな祭) この日はフツ餅をつき、女児の無事な発育を願いました。また親類を招いて「節供ブンミャア(振舞)」が盛んでした。
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お経参り
(川干の頃) 真言宗御室派実相院は寛治年間(1087〜1093)に創建したものであります。4月10日から20日まで催される如法経会は、「お経まいり」と言われ、宗派を越えて参詣人があります。
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端午の節供(句)
(5月5日) 男の節供(句)で、初めて男児が生まれると、嫁の里や親類から贈られた幟や鯉の吹流しを立てます。幟の下方に三角形の綿入れや猿の綿人形を吊り下げました。
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供日
(春・秋) オクンチは氏神様秋の大祭が特に盛大に催されます。氏神への収穫の感謝をこめ氏子たちは各家でクンチ料理には赤飯(オコワ)、フナのコブ巻き、煮しめ等で親類、友人を接待しました。
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日峯さん参り
(春・秋) 日峯社(松原神社)は鍋島直茂公が祭神であります。直茂公はかつて龍造寺氏の一部将でしたが隆信の戦死後、肥前の領主となり、領主の地位を嫡子勝茂にゆずり、多布施館に隠居しましたが元和4年(1618)81歳で逝去しました。(法名は日峯宗智大居士) 春秋の日峯さん祭には、住民達が老若こぞってお参りをしていました。
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英彦山詣り
正里の北の鬱蒼たる樹木のなかに社がある。三隅権現と呼ばれて、彦山権現が祀られています。 正里区では昔から住民代表が3月頃の農閑期に福岡県の英彦山詣りをしていました。また毎年12月15日には赤飯を蒸し、住民総出で村祭りをしていました。 昔の代参の者は、徒歩で田代、甘木、小石原をへて、英彦山に登る。3泊4日の日程も農民にとっては楽しい旅で、御札の他、飯杓子、英彦山ガラガラ、藁草履などの土産を持って各戸に配りました。
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三夜待
(23日) 廿三夜講は毎月二十三夜に行っていました。三夜とは二十三夜の略称で、本尊は勢至菩薩であります。
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六夜待
(26日) 本尊は愛染明王で二十三夜待ほど盛んではありませんでした。