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[遺跡・跡地][遺跡][久保泉校区]は4件登録されています。
遺跡・跡地 遺跡 久保泉校区
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丸山遺跡
丸山遺跡は金立山南麓より平野部に突出した丘陵上にあり調査前は雑木林であった。当地周辺は戦後蜜柑園として造成された為、多くの古墳が何らかの破壊をうけていたのに較べ、幸にも旧来の姿を残していた。 調査は昭和52年1月から昭和57年10月まで断続的に実施され、縄文時代晩期〜弥生時代前期(約2200〜2400年前)の墓と5・6世紀の古墳群などが発見された。 縄文時代のものには甕棺(3基)、支石基(130余基)、石棺(3基)があり、遺構の内部及びその周辺から、水稲耕作を裏付ける籾痕のある土器や石器等多数出土した。 古墳は10基あり、そのすべてが径4〜14mの円墳であるが、内部主体には竪穴式石室、横穴式石室、舟形石棺などがあり変化に富む。古墳からの出土遺物としては土器をはじめとして、鉄製品(剣・刀子・鏇・鉾・釧・斧・鏃等)や石製品(小玉・管玉・勾玉・琴柱形石製品)がある。 このように丸山遺跡では墳墓形式や出土品に多種多様なものがあり、極めて学問的に高い価値をもつ複合遺跡ということができる。 丸山遺跡は九州横断自動車道の建設予定地内に存在していたので、その保存に関して論議を呼んでいたが遺跡の西方約500mに移転されることになり、野外博物館的施設として活用されることになった。 昭和58年2月22日には、舟形石棺を形どったタイムカプセルが公募の品を入れて、3号墳内に納められた。
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西原古墳群
脊振山系の南麓に続く西原の低丘陵地で松林の中に古墳群が点在している。ほとんどが円墳の横穴式石室で開口され、いずれも巨石を用いている。 この古墳群は6世紀後半から7世紀にかけて築成されたものと推定され、この濃密に分布する古墳群は広大な農地に恵まれたこの地方に、当時家族集団を基礎とする農耕集落が相当発達していたことを物語るものである。
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古村周辺遺跡(ふるむらしゅうへんいせき)
下六の古村一帯には、中世遺跡が多い。 中世とは、平家が滅んだ1185年から、鎌倉・南北朝・戦国の時代を経て、関ケ原の戦いの1600年までをいう。 10世紀初頭には、各地に荘園といって貴族・社寺の私的領有地ができ、春日・松梅・金立・久保泉・西郷は、安富庄として後白河法皇が建立された長講堂の御領であった。ところが、鎌倉幕府の守護地頭配置によって武家に侵略され、南北朝動乱の後は庄園は廃れ、小地頭を勝手に名乗る小豪族や家人(下向武士)により新田が開発され、そこに居館や砦を構え、周囲を濠で囲んだ。 古村の縦横の濠は、右図に示すように中世の屋敷遺構である。下一の本村や村徳永周辺にも、これに似た濠跡があり、当時日常生活に使われた土師器やカワラケの破片が見当る。 この集落内にもエンシュー寺という寺屋敷があり、東の方には玉泉坊・ギチョー坊・デンソウ庵・神仏混こうの白鬚社・八幡社といった寺社が多く、也足庵のみが現存する。また、大刀屋敷・大刀堀(立掘、館堀)の地名もあり、砂鉄塊がある由、古刀の製作が為されていたともいう。 この集落の北から東へかけて「古陣」といい、字名を矢の助という。その一画に100m×200mの長方形の林を囲む濠がある。 内側は山林になっているが、三重の土塁(土屯)を以て築かれた砦がある。土地の人は「スーフクジ」という。崇福寺なのか、文献には見当らないし、山林なので内部遺構も今の処わからない。 戦国末期、神代長良が騙し討ちされた東千布商の土生島青土城の構築に類似しているので、中世末の平地砦・館跡と想定する。
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支石墓
金泉中学校の南、150mあたりは昭和25年頃まで桑畑や野菜畑であったが、段下げをして水田になすとき、かめ棺群が見付かった。 ここのかめ棺は、木蓋や石蓋をした単かめと、進化した合口かめ棺が多く、僅かに傾斜して埋葬した弥生中期のもの。 平成2〜3年に行なわれた圃場整備現地調査で、少し離れた所から弥生中・後期の竪穴住居跡やその後の掘立柱建物跡が確認され、この地の農耕集落が分かった。 その西北、運動場の南50m水田の中に昭和29年まで、大きな扁平石があった。これが脊振山系南麓で初めて発見された『支石墓』である。 支石墓は中国・朝鮮に多い巨石ドルメン系墓で、わが国では弥生時代に玄海沿岸に発達した。墓の内部は土こう又はかめ棺墓の埋葬施設で、これが壊れないように数箇の石で支え、扁平巨石を蓋とした。だから一見して、支石墓とわかる。 この石の取扱いには、慎重を期するようにお願いしていたが、適当な忠魂碑竿石が無かったので、これを搬出した。そのとき内部主体を故意に砕き、何も無かったことにして、村徳永共同墓地の中央、せんだんの木の根元に埋めたとのこと。 当時の人の話を総合すれば、1組の合せ口かめ棺と推定される。 昭和29年春のことである。久保泉小学校・校庭西の忠魂碑がそれ。 この石は「ううひと=超巨大人」が金立山に腰掛け、力試しに2つの石を投げた。東の石が村徳永、もう1つが尼寺南小路。(昭和49年発見) そのときの左足が町分西屋形の水田「ううひとの足跡」だと。うう人でなく、金立さんだとか、北山正現さんだとも言う。 いずれにしても、この石を移動すると、うう水=洪水が出るとか、ひねった人はううけがをすると伝え、昔からこの石を大切にしていた。 古墳を大切にしようとの、いい説話である。