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[遺跡・跡地][遺跡][赤松校区]は3件登録されています。
遺跡・跡地 遺跡 赤松校区
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万部島
万部島は昔は川に囲まれた島であった。 龍造寺家兼(剛忠)が水ヶ江城内で法華経一万部を修業、読誦した経文を書写して城の東北の鬼門(陰陽道で悪魔が出るという北東の方向)に奉納した。(読経納経)この地が万部島である。家兼(剛忠)は「我が子孫、秀いずる者あらねば則ち下民を撫育し、慈悲垂れて家臣を憐れみ、人道を勤めておこたる勿れ」といい貯えていた財宝をことごとく貧民に施し、領民が借用していた銀米類一切を棄損(慈善・公益・救済などのための寄付・ほどこし)したという。 鍋島勝茂(初代藩主)より直大(11代)に至るまで萬禱石塔の記念碑が11基建立されている。 祈禱石碑 形式−台石、蓮華代、棹石(上部三角) 同一形式状寸法 第1基 松平肥前守藤原朝臣勝茂 第2基 大守従四位肥前侍従松平丹後守藤原光茂 同嫡男 第3基〜第11基(国家安泰、万民安楽祈念) 国家安泰・万民安楽を祈願するならわしは各藩で行われたが、佐賀では、鍋島氏以前、龍造寺家兼が永正2年(1505)3月、天亨和尚を導師として、野田石見が奉行となって領内の僧300人を集め執行したのが最初である。天亨和尚は剛忠の弟で水上山万寿寺の僧。また乾亨院の開山である。万部祈願塔をかまえたことは、天災地変によりこうむる年毎の災害が、最小限度に済むように、国家安全にして連続万代におよぶように、藩主一族、領民のすべてが安らかにして諸願円満に成就するようにと、大法要を営み、仁政のほどをしめしたことを裏書きするものである。
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南濠周辺の史跡
南濠に面する中の館町は龍造寺氏の水ヶ江城のあった場所で、龍造寺隆信の生誕地を示す大きな記念碑がある。その東側にある乾亨院には、明治7年佐賀戦争で戦死した政府軍の官軍墓地がある。豪壮な大理石の3基の墓石が目をひく、同じ境内には官軍と戦った征韓党の指導者朝倉弾蔵の墓もある。 中の館町の西隣鬼丸町に明治の元勲副島種臣の生誕地があり、記念碑が建てられている。記念碑前の濠岸には佐賀城濠の石積みの模型がつくられており、赤石といわれる凝灰岩が用いられたことがわかる。
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西濠端周辺史跡
この一帯は龍造寺氏時代の村中城のあったところである。老楠が茂り、城内側の若楠会館の西側には楠を献身的に守った楠おばさん故福田ヨシさんの記念碑がある。西濠端に面してはイギリス宣教師が住んでいた、数少ない明治の洋風建築の中元寺家がみられる。その近くの小路の奥には大隈重信の墓地がある龍泰寺がある。この寺は龍造寺隆信が建立した曹洞宗寺院、寺号は龍造寺安泰から山号を平安山と称している。現在の本堂は佐賀城本丸屋敷を解して改築したものである。