検索結果 RESULT
[建造物][その他][日新校区]は3件登録されています。
建造物 その他 日新校区
-
久保薬局看板
のこぎり型家並みの中で目につくのが、久保薬局の「牛黄清心圓」の看板です。藩政時代における売薬の調製販売には、佐賀藩の厳しい規制が加えられ、諸国を歩く越中の薬売商人も、佐賀藩だけは避けて通ったといいます。そのため、藩内では巨財を成す薬屋が多くありました。 久保薬局の「牛黄清心圓」は強壮薬で、佐賀藩の秘伝薬でした。一般に売られるようになったのは明治になってからで、その時に掲げた看板が今も残っています。
-
のこぎり型家並み
長瀬町の道しるべから西へ向かうと、八戸町である。現在も昔の街道の面影をよく残している。 長崎街道は東側の長瀬町・多布施新宿や西側の古宿とはやや向きを変えて斜めに走る。そのため、新宿では宅地と街道が直角に交わらず、いわゆるノコギリ型の地割が形成され、特徴ある町並み景観が展開している。後になってそのくぼみは、敵が攻めて来たときに隠れて不意を突いて攻撃をするためだとか、荷車を置くためのものだとか言われている。 家々の屋根は二重屋根が多いのも特徴である。一重屋根ですむのにわざわざ二重屋根にしているのも珍しく、中には大きな白壁の土蔵づくりの家が何軒か目につく。
-
喜楽座
喜楽座は辻の堂の旧料亭万才附近にあって、喜楽舎と呼ばれていた。明治5年頃に現在の地(与賀町)へ移り喜楽座となった。芝居、浪花節、漫才等が公演された。敷地は600坪、収容人員700人の、当時としては大きな劇場であった。 この頃から西の白山と呼ばれ、庶民の娯楽の場となっていた。その昔、この附近は野墓があり、さみしい所であった。そこへ武士の楽しみでもある馬場が出き、与賀馬場と言われていた。喜楽座が出来て、人が多く行き交うようになり、護国神社の近くにあった日の出館とともに与賀町の発展に寄与した。 昭和40年ころまで、永い間続いたが、時代の流れには逆らえず、映画からテレビへと移り、庶民の娯楽の殿堂も姿を消し、今は建物の3分の1が残っているが、中は会社の倉庫となっている。天井の高い合掌作りの太い柱が往時の郷愁を呼び起こしてくれる。