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[建造物][橋・井樋等][若楠校区]は4件登録されています。
建造物 橋・井樋等 若楠校区
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練兵場橋 (れんぺいじょうはし)
練兵場の名残として、橋の欄干に「練兵場橋」の名称が残っている。 この場所は、戦前の軍事施設「練兵場」の北西角、民地側との境界地に当たり、この新たな「練兵場橋」が出来るまでは、地域の人たちが通るただの石橋(橋の名称・欄干も無い)が存在していた所である。 昭和48年1月、現在のコンクリート橋が成工され、当時の関係者が練兵場等の軍事施設が存在した歴史、事実を後世の人達が忘れないようにとの配慮から、この橋「練兵場橋」と命名されたものである。 この橋自体には、名称以外に歴史を伝えるものはない。
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蓮堀橋 (れんぼりはし)
練兵場関連の名残として、橋の欄干に「蓮堀橋」の名称が残っている。 この場所付近一帯は、明治時代後期、日本陸軍「第55聯隊」の兵営・練兵場等建設のための埋め立て用地の土砂を採掘したため、一面窪地の堀となり、一帯に蓮が栽培されていたことから、当時この堀を「蓮堀」と呼称していた所である。 終戦後暫くして、その堀はまた埋め戻され、宅地造成がなされて、新たな水路の上に昭和46年4月、このコンクリート橋が成工された。 当時の関係者が兵営建設を経ての練兵場・兵営施設の存在等の歴史、事実を後世の人達に伝え、忘れ去られないようにとの配慮から、この橋の成工を機に命名されたものである。 今は、橋の名称以外に往時の姿は残っていない。
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土取橋 (どとりばし)
練兵場の名残として、橋の欄干に「土取橋」の名称が残っているものである。 この場所付近一帯は、明治時代後期、日本陸軍「第55聯隊」の兵営・練兵場等建設のため、埋め立て用地の土砂を採掘したために一面堀となっていた所である。 終戦後暫くして、その堀はまた埋め戻されて、宅地造成がなされ、新たな水路の上に昭和44年4月、このコンクリート橋が成工された。 当時の関係者が兵営建設を経ての練兵場・兵営施設の存在等の歴史、事実を後世の人達に忘れ去られないようにとの配慮から、この橋の成工を機に命名されたものである。 この橋自体には、名称以外に歴史を伝えるものはない。
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「陸軍用地 一」の境界地用石碑
旧日本陸軍の練兵場、陸軍用地と市丸氏所有の農地との境界に立てられていた石碑が残されている。 終戦とともに、軍は解散し境界地に転倒したまま放置されていた同石碑を自宅で保管しているもの。 当時、現場に立てられていた場所は、当時の練兵場北西角で、現在の県営テニスコートの南西角の位置であった。 石造物の大きさは、高さ1m、横幅18cm、縦幅16cmである。