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[建造物][橋・井樋等][大和町]は5件登録されています。
建造物 橋・井樋等 大和町
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尼寺林と洪水敷
川上川では洪水の時に、貧弱な堤防が決壊しないようにするため随所に「ノコシ」が設けられ、この「ノコシ」を越えて外側に放流されるようにして水勢を減殺するように計画されていた。「ノコシ」の底部は頑丈な石畳にしてあり、激しい水流のために決壊しないよう徹底的に補強設備を施し、上部は土俵を積み洪水の時の放流口とした。しかも乗り越した河水や土砂が付近の耕地を荒さないよう徐々に氾濫させ、水勢を減殺するように工夫されている。すなわち水防林として五町歩(5ha)の広い竹林を設けた。これが尼寺林である。いわゆる洪水敷であって、現在は大部分が開墾されて畑地になり、昔の面影としてわずか嘉瀬川岸の竹林のみが残っている。更に石井樋から惣座に至る「本土井」を築き、その外側に平素は水のない川(第二の洪水敷)を設けて、竹林をくぐって流れ込む水をこの川に入れ、下流に流す方法が取られている。洪水の時に1番被害を受けるのは砂礫が流入して耕作ができず、これを取り除くのに非常な手数が掛ることであり、この砂礫を水防林で濾過し、更に第2堤防の外側の川で下流に排出するので、泥水が田畑に流入することがあっても、それは微粉状の土と水で、水が引けば泥水は客土となり田畑に益することともなった。すなわち尼寺林は水防林であり、洪水敷であったわけで、堤防自体の補強と洪水の水勢弱化に大きな役割を果たすものであり、その濾過性は泥水だけを耕地に導くという地力の更新にも役立った。
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官人橋
明治13年(1880)7月「長崎県より河上川筋二付而之問答書」の中に「河上宿の上、桜馬場の辺より井樋口下まで河中に細長き島有之、支河の姿に見たり、成富創業の時はこの島はなかりしともいふ。都渡城宿よりこの島に仮板橋を架し(旧暦九月より五月まで之をかく)、この島より桜馬場の南詰にかけたる長短一聯の橋を勧進橋といふ。この橋も寛文のころまでは今の場所より数十間水上に、都渡城宿へ桜馬場より直ちに土橋を架したり………」とある。 昭和24年(1949)の水害までは桜が一面に植えられた中の島が勧進橋の上下に細長く横たわり、東側で嘉瀬川に通ずる本流と、西側で一の井樋に通ずる芦刈水道とに分水していた。 この中の島も寛永のころ(1624~1644)成富兵庫茂安の水利工事によってできたようで、川上宿から都渡城に通ずる橋はこの島を中継した長短一連の板橋で、これを勧進橋と呼んでいた。それは旧9月の淀姫社例祭から免田の納米、3月の実相院お経会、更に5月淀姫社例祭と利用し、雨期に入る6月ごろから8月ごろまでは渡し舟による以外なかったようである。 元禄(1688~1704)のころ、佐賀藩のお抱え絵師小原友閑斉が描いた「肥前河上淀姫社の図」は桜馬場の桜が満開した4月ごろの風景で、中の島に板橋がかけられ、又、約20段の石段を登った高台に淀姫社の境内があり鐘楼も見える。又大楠の向こうに実相院の一部も見えている。現在と比較して、より荘厳であり興味ある絵である。(県立博物館所蔵)後世になってこの板橋も土橋になり、それがコンクリート橋に変わったが、更に昭和24年の水害によって流失したので、場所も元の橋より約80m上流の現在地になり鉄製の吊橋が昭和28年3月完成した。 勧進橋の名称は葉隠聞書にも見られ、天明5年(1785)河上神領絵図面にも勧進橋と記載してあり、又明治39年(1906)九州沖縄八県聯合共進会の時、協賛会が出した佐賀県案内には勧進橋と明記しているから、官人橋と書くようになったのはそれ以後で、大正時代以後ではないだろうか。
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名護屋橋
豊臣秀吉が征韓のため、この地を通過したのが文禄元年(1592)である。その日はあいにくの大雨で、川上川は氾濫し渡河に困難を極めた。鍋島直茂は尼寺宿で秀吉の軍をねぎらい、急いで船橋を作り秀吉の軍を渡した。以来名護屋橋と称するようになったと「普聞書」に述べている。 従来渡船場であったが、明治17年(1884)9月、その筋の許可を得て尼寺村と平野村協同の賃取橋を架設した。その時の標柱が平野側のは平野の白山妙理権現社に、尼寺側のが尼寺の印鑰社にそれぞれ保存されている。 明治40年(1907)県費支弁となり、同42年(1904)の洪水で流失したので再び架設した。橋長32間(57.6m)、幅2間(3.6m)の木柱の土橋で、現位置よりやや上流、大和中学校前の県道を東に延長したくらいの位置に架し、渡り終えてから南に下り、更に左折して祇園土井にだらだら坂を登って行った。川上川両岸の堤防は今のように高くなかったので、橋の高さも低かったが、西側の堤防は比較的高かったので、佐賀の町の野菜市場へ出す荷車(当時はほとんど車力)は1人では登れなかった。だから連れの者と協力したり、家族の誰かが後押しのため、ここと更に祇園土井まで行くのが通例であった。 橋の付近の道の両側には大きな椋の木が栄え、夏は涼しい緑陰となり憩いの場でもあった。 この橋も昭和20年(1945)の洪水で流失し、この橋よりやや下流にコンクリート橋が出来たが、これも同24年(1949)の洪水で倒壊したので、西側の堤防を更に高め、橋脚を高くしてコンクリート橋とし、東側は祇園土井まで陸橋や長堤でつなぎ、又同46年(1971)3月橋の南側に歩道・自転車道がつけられた。 ※写真の石碑は白山社にある標柱。
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眼鏡橋
寛永11年(1634)支那の僧如定が長崎在住の折り、支那式拱橋の架橋を伝えたといわれている。三反田の眼鏡橋はその工法によって出来たもので、明治27年(1894)松梅村長 野田俊吾の時代に竣工した。当時の工法としては画期的なものといえよう。この橋を渡って行くのが昔の旧道である。又、八反原の国道323号線にも眼鏡橋がある。
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渡瀬橋(平田橋)
この橋は川上地区から佐賀市へ行く近道であるが、昭和初期まで渡し賃を取っていた。