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[建造物][橋・井樋等][兵庫校区]は5件登録されています。
建造物 橋・井樋等 兵庫校区
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道祖神樋門跡
平成元年からの兵庫南部土地改良区の圃場整備で70有余年の歴史の役目が終了、水田稲作、生活用水、消防水等住民の生活に貢献をして来た。水田耕作については戸板によって水位を上昇させ灌漑の労役が軽減された。その貢献を感謝し跡地を写真のように整備して残している。堀も大きく昔は10月頃の水落の頃には鳥栖方面より列車を利用してフナ釣りの人々が早朝より見えていた。 圃場整備後は道祖神樋門の西200mの所に県営水路が出来、制水門が堅固に造られている。佐賀平野の低平地では100年周期で治水工事が行われているという大学の先生の話を聞いた事があるがどうも実際に道祖神樋門は的中しているのではと考えられる。
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分水地
伊賀屋、堀立、巨勢方面への水の配分が公平になされている。 巨勢川の地下を西から東に向ってこの所に湧き出している。 現在は柵で囲ってあり整備されているが昔は目に付きにくかった。
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巨勢川用水取り入れ樋門
藪の奥が昔の取水口、洪水の時はここが非常に危険だった。 稲作作業の前、公役で川に堰を作り取り入れ口に水を誘導していた。 現在は新しい取水門が作られている。また川の南の方に頑健な制水門も作られ公役の労は不必要となっている。 水門奥には広場があり今は公園のようになっている。昔は樋門等の工事関係者の名前を刻した石柱が立っていた。
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惣よん橋
この橋は若宮にある。龍造寺時代ここに居住していた豪傑西村惣衛門(左衛門)が架けた橋と伝えられる。 神代家記により西村惣衛門の勇猛ぶりをみると、次の通りである。永禄4年(1561)9月、龍造寺隆信は神代勝利のもとに使をやり、こんどは川上あたりで出会い、直々に槍を合せて一度に決着をつけようではないかと申し込んだ。勝利もこれに応じ、13日を期して決戦することになった。 隆信は1万余騎を従え、勝利は7千余騎を率いて熊川城を出て川上川をはさんで都渡城方面に勝利の二男周利、八戸下野などが出陣し、龍造寺方よりは隆信の弟、左馬頭周光、小川大炊助が対陣した。 淀姫神社辺には神代勝利、その子惟利が控え、龍造寺方も隆信自ら納富信景、福地信重などを率いて出陣した。戦いは川東より始まり激戦数刻の後、神代周利は戦死し、八戸下野などは重傷を負うて敗走した。 川西の神代勢もこれを見て勢をそがれて遂に退却を始め、追われた勝利は八反原で捕えられる寸前、辛じて虎口を脱した。神代方は大敗したが、この戦で神代方の陣中にあって勇名をとどろかしたのが、西村惣衛門である。 彼は川上川の西岸の一段高い所にあって攻め寄せる敵を弓矢で射かけ、射すくめ防戦したが矢種が尽きたので、大刀を振りかざし龍造寺軍に斬り込み散々暴れまわった。敵十数人を討ち取ったが、その身も深手を負い付近の民家に身をひそめ、ようやく死を免れて居村若宮にたどりついた。
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きひょうえ橋(喜兵衛橋)
兵庫小の北東、巨勢川(市道若宮西中野線)に架かる橋。 きひょうえ橋の由来は、その昔若宮の豪農八田喜兵衛氏が自作田を農耕のために、巨勢川の東より西側へ橋を架けたのが初めで、その後八田平太郎氏の発起で騎兵隊の協力で石の橋が架けられました。 平成になって巨勢川の改修工事に伴い現在の太鼓橋となり水難防止の立派な橋となりました。