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[建造物][碑][巨勢校区]は3件登録されています。
建造物 碑 巨勢校区
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灌漑記念碑
東分下の耕地は、巨勢地区でも土地の高い所で、踏み車で水田に水を汲み上げており、当時、毎日水田に灌水して維持していくのは並大抵の苦労ではなかったのです。踏み車を2段、3段と連ねての水入れ、朝は3時、4時から蚊に刺されながら、小学生までも動員しての車踏みが毎日、毎年繰り返されました。そのため多くの人手と労苦は大変なものでした。そこで大正10年に東分耕地整理組合を作り機械灌漑施設を取り入れる事業を始めました。しかし日本で初めての事業で困難がつきまといました。最初は5馬力のディーゼルエンジンを据えて実施しましたが、この発動機が不調で失敗しました。次に小型発動機を船に積んで行う舟形揚水機を真崎鉄工所が開発して実施しましたが、船の運行が不自由の上、機械に不慣れで失敗しました。そして翌年真崎鉄工所が2馬力の電力モーターによる揚水機を開発し、電力の導入など問題は山積みしましたが、モーターと揚水機は真崎鉄工所が受け持ち大正12年に完成しました。この機械灌漑は佐賀平野に急速に広がり、東分下のこの事業は日本の先駆者となり、その記念碑が建っています。碑文は当時の県知事の作です。
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郡境石
修理田一本松一の角340番地、佐賀郡と神埼郡との境界の石で高さ5尺4寸(約170cm)幅6寸5分(20cm)の四角の形をした石柱で264号線の旧道路横に建っている。
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売茶翁と顕彰碑
東巨勢、龍津寺の名僧であった月海禅師は、姓は柴山、名は元昭で売茶翁または高遊外と号し、日本煎茶道の祖としてその道の人から仰がれている。 売茶翁は延宝3年(1675)佐賀市蓮池町西名の道えん(巨勢町東巨勢との境で諸富豆腐のすぐ東付近)で柴山杢之進の三男として生まれ幼名を菊泉と言いました。翁は11歳のとき龍津寺の化霖和尚の門に入りました。龍津寺は黄檗宗万福寺独湛の弟子化霖の開山です。翁は出家の翌年化霖に連れられて万福寺で独湛から年少で才幹に富んでいると誉められたそうです。その後、少年月海は、禅僧として激しい修行に励みました。22歳の時胃を患ったが治らないのは修行が足りないためだとして、病が治らないのに雲水に身を託し修行の旅に出ました。仙台の月耕和尚や近江の湛道和尚など各地の名僧などに学び、後、佐賀の雷山で断食苦行などして龍津寺に帰りました。こうして龍津寺で14年化霖に仕えましたが、その間禅僧としての修行だけでなく広く学問に力を入れ、禅と学問に優れた僧として成長しました。そのころ長崎で中国人の煎茶趣味を知りこれも習得し、茶の湯も習得したようです。 化霖の死後、弟弟子の大潮を呼び寺を譲り、京都に上り、念願の売茶の道に入りました。その時56歳でした。 当時、京都では、売茶や煎茶も流行し始めていましたが、翁は東福寺近くの道の傍らや相国寺や三十三間堂の門前などで茶席には「茶代は黄金より半文銭まではくれしだい、ただのみも勝手、ただよりは負け申さず」と書いたといいます。 翁の名利に頓着しない性分がこの中にあらわれています。 当時の僧が権門に出入りし僧の地位を求め、お布施を求める姿に反発し功名や富貴を度外視して、茶を売って飢えを防げばよいとして、春は花、秋は紅葉を求め、茶道具を担って客を待ち、すばらしい話をする姿に文人墨客も集まり、その名は遠く広がり、おう茶を受けねば、文化人といわれぬというくらい評判になりました。 後に京都の岡崎で茶道具を焼いて門を閉じ89歳で亡くなりました。 人々は煎茶の祖として尊敬し、宇治の黄檗宗本山万福寺に売茶堂が建てられ、翁の木像がまつってあり、龍津寺跡に煎茶の森本氏や檀徒の中島氏などにより売茶翁顕彰の碑が建てられています。