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[指定文化財][史跡][久保泉校区]は2件登録されています。
指定文化財 史跡 久保泉校区
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帯隈山神籠石
重要文化財
神籠石は佐賀市の北部山麓に築かれた古代山城(やまじろ)である。帯隈山(標高175メートル)を中心に切石を並べた列石線が約2.4キロメートルの長さで一周し、途中、北面に門跡1か所、南面に水門推定地3か所がある。昭和16年(1941)に発見され、同39年に発掘調査された。 列石線は帯隈山から天童(てんどう)岳、清兵衛(せいべい)山にかけ、尾根上を地形に合わせて複雑に屈曲し、途中、小さな谷を渡る場合は出水に備えて水門を設けていたと思われる。全体としては北側山頂部から下って南側山裾を廻り、2、3の低丘陵を取り囲んで馬蹄(ばてい)形状をなす。列石の用材は花崗岩(かこうがん)で、高さ60センチメートル前後の直方体に切りそろえられたものである。 神籠石という名称は、かつてこの列石が神域を示すものと考えられていたことによるが、発掘調査の結果、実は列石は土塁(どるい)の基礎であり、その背後上部には高さ2、3メートルの土塁が版築(はんちく)によって築かれ、また石塁前面の平坦部には約3メートル間隔で木柵が立てられていることがわかっている。 神籠石は現在、北部九州から瀬戸内一部にかけて12か所知られる。しかし、その存在は文献に明らかでなく、また規模や立地、域内に建物跡がみられないなどの点で、基肄城(きいじょう)跡など朝鮮式山城と様相が異なる。6、7世紀ごろの築城とされるが、正確な年代、目的、性格となると不明で、今日でもまだ謎が多い。
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関行丸古墳
史跡
脊振山南麓の狭い扇状地上に立地する。東に神籠石(こうごいし)で知られた帯隈山(おぶくまやま)、西に139.5メートルの山丘によって囲まれた平地に位置する前方後円墳である。昭和32年(1957)に佐賀県教育委員会、九州大学が発掘調査を実施した。後円部径35メートル、周囲の水田面からの比高差4.5メートル、幅13メートル、高さ1メートルで主軸の方向は西25度南である。葺石(ふきいし)・埴輪(はにわ)などの外部施設は認められない。 内部主体は短い羨道(せんどう)をもった単室の横穴式石室で後円部にあり、北側くびれ部に向かって開口する。石室は長さ4.35メートル、幅2.8メートル、高さ2.65メートルで、奥壁の方が前の部分より約0.8メートル広い。側壁の架構は腰石の上に比較的小型の塊石を平積みにしてせり上げている。石室内は石障(せきしょう)によって区画された3つの屍床(ししょう)がつくられている。1つは北側にあって東西に長く、他の2つは西側にあって南北に長く、奥壁に平行して前後に並列している。3つの屍床には計5体の遺骸が埋葬されていた。石室内は天井部と羨道部を除いて、屍床から床石に至るまですべて鉄丹(に)が塗られている。羨道の幅は玄室に接するまで1.2メートル、開口部が2.2メートルで「ハ」字状に先開きである。 副葬品は、鏡4面、金鋼製冠帽、貝輪、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、小玉、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす)、辻金具、鋲(びょう)金具、三環鈴(さんかんれい)等が出土している。当古墳は6世紀初頭ごろの築成と考えられる。