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[指定文化財][史跡][金立校区]は7件登録されています。
指定文化財 史跡 金立校区
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東名(ひがしみょう)遺跡
史跡
東名遺跡は、今からおよそ8,000年前の縄文時代早期の遺跡で、国内最古の湿地性貝塚です。遺跡には居住域・墓地・貝塚・貯蔵穴がセットで残されており、縄文時代のムラ全体の様子が良くわかる国内でも数少ない例として貴重なものです。 また、縄文海進の影響で、遺跡全体が厚い粘土層に覆われるなど保存条件にも恵まれ、国内最古級の様々な遺構・遺物が良好に残存しており、日本の生活文化の源流を考える上で極めて重要な遺跡です。
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銚子塚
史跡
脊振山系南麓から南へ1キロメートルほど下ったゆるやかな微高地上、標高15メートル付近に位置する前方後円墳である。前方部を西に向け、全長98メートル、後円部径58メートル、高さ8メートル、前方部幅32メートル、高さ4.6メートルである。墳形は前期古墳に特徴的な柄鏡(えかがみ)形で、後円部と前方部の比高差も大きい。前方部は戦中戦後の開墾と土取りで段状に削られ、斜面部は石垣となっているが、墳丘の遺存度は良好である。後円部が3段に、前方部が2段に築成され、後円部には花崗岩質の葺(ふき)石が多数認められる。周濠は幅11.5メートル~28メートルと広く、墳丘に沿って巡っており、中期古墳に多い楯形(たてがた)周濠に先行する形態である。内部主体は竪穴(たてあな)式石室と推定されるが、実態は明らかでない。現在、墳頂に忠魂碑が建てられているが、大きな盗掘の跡などは認められず、内部主体、副葬品等の遺存状況は良好であると思われる。 本墳を特徴づける出土遺物に土師器(はじき)の二重口縁壼6個体以上がある。これらは開墾中に偶然出土したもので、その出土位置は南側くびれ部の2段目テラス付近と推定される。いずれも丹(に)塗りが施され、胴下半部が長くのびて、底部には焼成前の穿孔(せんこう)が認められるなど 形態は壼形埴輪(はにわ)に極めて近い。 本墳はその墳形と出土遺物から4世紀末ころに築かれたものと推定され、古墳時代前期の佐賀平野における政治権力の存在を知ることができるとともに古墳文化の伝播(でんぱ)と成立を考える上で重要な意義をもっている。
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西隈古墳
史跡
脊振山系南麓の緩やかな台地上、標高30メートル付近に位置する径約30メートル、高さ約4メートルの円墳である。墳丘は周囲を宅地や畑により削られているが、わりと残りは良く、2段に築成されている。墳丘上からは形象埴輪(けいしょうはにわ)・円筒(えんとう)埴輪の破片が採集されており、また葺石(ふきいし)帯の存在も確認されている。 本墳の内部主体は初期横穴(よこあな)式石室で、内部に横口式の家形(いえがた)石棺1基を納めている。玄室(げんしつ)は長さ3.3メートル、幅1.5メートル、高さ17メートルで、周壁は基底部に腰石を裾え、その上にやや偏平な塊石を平積みしている。玄関の外側には長さ2.8メートル、幅1.1~1.4メートルの前庭側壁が続く。使用石材はいずれも花崗岩で、玄室内には赤色顔料(せきしょくがんりょう)が塗られている。 玄室内の石棺は阿蘇山系の凝灰岩(ぎょうかいがん)製で、玄室主軸方向に設置されている。長さ2メートル、幅1.1メートル、高さ1.3メートルで、4枚の板石を組み合わせており、底石はない。玄関側小口面には一方にかたよって横口部が設けられている。棺の蓋(ふた)はカマボコ形に近い寄棟(よせむね)で、両長側辺に各2個の環状縄掛突起がある。棺身及び棺蓋の玄門側小口面にはコンパス痕を残す円文及び連続三角文を線刻し、図文以外の部分に赤色顔料を塗っている。本墳は以前に盗掘にあっており、挂甲片(けいこうへん)、鉄鏃(てつぞく)等の遺物がわずかに出土したのみであるが、石室・石棺の構造より5世紀末ごろの築造と推定され、環有明文化圏における石棺系装飾古墳の代表例として重要な位置を占めるものである。
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乱斗山古墳群
史跡
金立山麓の金立川流域に、古墳時代の6世紀後半~7世紀前半に築造された黒土原古墳群、金立社中宮付近古墳及び乱斗山古墳群がある。これらの群集墳のほとんどは横穴式石室を内部主体とする小円墳である。他地域にも、これに類するものが存在していたが、一部を残してほとんどが消滅している。 このような状況のなか、殊に乱斗山古墳群は、壊されずにその特徴を留め、良好な状態で遺存している。現在確認できる円墳は4基である。 その特徴は、 ・巨大な石材を使用して石室を構成した巨石墳。 ・石室の巨大さに比べて封土は小さく群集墳をなす。 ・石室は、単室もののほか奥室と前室の2室を有する副室墳。 ・内部主体が整備され、外郭の封土より内部の石室構成に重点が置かれている。 などである。
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高麗人の墓碑・逆修碑
史跡
『葉隠聞書』第三に「有田皿山は、直茂公高麗国より御帰朝の時(慶長3年-1598)宝になるべくと候て、焼物上手頭六、七人召し連れられ候。金立山に召置かれ焼物仕上り候。其の後、伊万里の内、藤河内山に罷り移り焼物仕上り候、それより日本人見習い伊万里有田山方々に罷り成り候由」とある。 この聞書の金立山は、現在の佐賀市金立町の大門で、この内容を裏付ける史跡として、2基の石碑が建立されている。 高麗帰化人の墓碑で、「逆修、朝鮮国工政大王之孫金公之」、右側に「道清禅定門寛永六年已巳八月日」左側に「妻女同国金氏妙清禅定尼八月日」とあり、他の一基には「暁月禅定門寛永五年戊辰九月初五日」とある。 この墓碑は、16世紀末李氏朝鮮国の陶工団によって、陶磁が焼かれていたことをうかがわせていると共に肥前磁器の源流を究明する上から貴重な墓碑である。
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金立神社上宮
史跡
金立神社は、平安時代の貞観2年(860)に従五位下を授けられたことが正史に見える由緒の古い金立神を奉祀する神社であって、鎌倉時代には社領10町歩を保有し、江戸時代には雨乞いに霊験のある神として、佐賀藩主をはじめ広く人びとに崇敬されていた神社である。 祭神は、保食神(うけもちのかみ)・罔象売女命(みずほめのみこと)・秦の徐福の3神である。 「湧出御宝石」と称される巨石や巨木などの自然物を神の依代(よりしろ)として崇敬した神社形態が整う以前の古い祭祀の名残りをとどめる県内では例の少ない信仰史上極めて価値の高い祭祀遺跡である。 また、一間社流造りの神殿や入母屋造りの拝殿は、その造立年代は新しいにしても県内では類例のない大規模の石殿として、石材工芸史上注目すべき価値を有している。
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葉隠発祥の地
史跡
現在、山林及び畑地等となっていて、葉隠の口述者山本常朝が隠棲(いんせい)した朝陽軒(ちょうようけん)(のち宗寿庵(そうじゅあん))等の遺構は残っていない。 ただその跡に「大乗妙典一千部」石塔があり、それより東方100メートルほどの所に「常朝先生垂訓碑」が建てられている。 元禄13年(1700)山本常朝は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂死去のため落髪出家してこの朝陽軒(のち宗寿庵)に隠棲した。10年を経て同藩士田代陣基(つらもと)が自已修養のため、ここを訪れ教えを請い、のちの大小隈(だいしょうくま)での口述と合せて7年にわたり、その教訓を中心に筆録したのが葉隠11巻である。 千部経塔は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂の夫人が亡夫追善のために法華経一千部を自読した碑で「大乗妙典一千部、元禄十四年辛巳年始繙之而至正徳二壬辰年五月十六日圓満修」と刻まれている。 「常朝先生垂訓碑」は、昭和10年(1935)10月に建設されたもので、碑面の文字は武富時敏の書で、碑文は西村謙三の撰を中島雅明が書いている。また、碑の背面には、「憂世から何里あろうか山桜」「白雲や只今花に尋ね合ひ」の句が記されている。