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[指定文化財][史跡][大和町]は7件登録されています。
指定文化財 史跡 大和町
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肥前国庁跡
史跡
肥前国庁跡は佐賀市大和町の中心を流れる嘉瀬川左岸の、標高14メートルの自然堤防上に立地する。肥前国庁跡周辺には、国府関連施設と考えられる多数の掘立柱建物群が分布している。正倉群と考えられる建物群(惣座遺跡)や国司の館と想定される建物群(久池井B遺跡)、長大な基壇建物3棟で構成された官衙関連の建物群(久池井六本杉遺跡)が周辺に所在する。また嘉瀬川右岸にも官衙関連の建物群(東山田一本杉遺跡)と郷家関連と思われる建物群(大願寺二本松遺跡)が所在している。この他にも奈良~平安時代の官衙関連遺跡および集落遺跡として左岸では、小川遺跡・北畑遺跡等、右岸では大願寺一本松遺跡・於保三本松遺跡等があげられる。さらに肥前国府と関連する史跡および社寺として大願寺廃寺・肥前国分寺・肥前国分尼寺・印鑰神社・与止日女神社・甘南備神社等があげられる。 肥前国庁跡は、奈良時代後半から平安時代前期(約1250年~1050年前頃)にかけて、古代肥前国の中心となった役所跡で南北約105メートル、東西約77メートルの平面長方形に巡る溝跡と、その内側の築地によって囲まれた空間に、前殿・正殿・後殿が南北中軸線上にならび、前殿の東西両側に各2棟の脇殿を配置している。また正殿の東西には回廊が取りつき、郭内を南北に二分し、南門は築地を内に曲げて八脚門を設けている。 また、政庁域周辺にも国庁の政務を分担した役所にあたる多くの曹司(そうじ)や税を収めた正倉(しょうそう)群が存在した。 肥前国庁の構造は、大宰府政庁との類似性が指摘されているが、行政組織だけではなく、国庁の造営に関しても大宰府のつよい影響がうかがわれる。 出土した遺物は土師器・瓦片・墨書土器等であるが、8世紀後半代と思われる軒丸瓦から肥前国独自の変容が観察され平安時代(9世紀以降)には独自の鬼瓦と瓦文様がつくられる。 国庁の内部が明らかになっている遺跡は、これまでに全国でも数カ所しかなく、きわめて貴重な遺跡である。
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大願寺廃寺跡
史跡
佐賀市大和町大願寺地区の五社神社を中心とする一帯にあって、文献記録に登場しない奈良時代の寺院跡である。立地は山麓に近い標高約25メートルの扇状地上、肥前国庁跡から嘉瀬川を挟んで西方約2.5キロメートルの距離にある。 現存する遺構は五社神社境内に建物基壇(きだん)が残り、礎石約50個がおよそ4地区に分散している。その範囲はほぼ2町四方(約200メートル四方)であり、布目瓦(ぬのめがわら)の散布も同じ範囲であることから、寺域は肥前国分寺同等の規模と推定される。伽藍(がらん)配置は明らかでないが、五社神社地区に柱座の造り出しをもつ礎石が多く、かつ基壇が存在することから、この地区に中心的な建物にあたる金堂あるいは講堂の存在が考えられる。また、その東方約180メートルには東門に関係するであろう2孔を穿(うが)った礎石が1個残存する。 これまで出土した瓦には寺浦廃寺跡や基肄城(きいじょう)跡と同じ萢(はん)で造られた瓦がみられ、国分寺跡や国府跡とも合わせ、相互の関係が注目される。 なお、本廃寺跡は千葉県で出土した宝亀(ほうき)5年(774)銘鐘に記された「佐賀郡椅寺(はしでら)」にあたるという説もある。
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小隈山古墳
史跡
嘉瀬川の西約2.5キロメートル、脊振山系南麓の独立丘陵上に立地する。丘陵は四方が比較的急峻な斜面をなしており、古墳は丘陵頂部の西側尾根上、標高約60~65メートルの位置に、ほぼ東西方向を主軸として築かれる。ほぼ真西に前方部を向ける前方後円墳で、全体が蜜柑園造成により改変を受けているものの、墳形自体は旧状をよく保っている。 墳丘は、全長約63メートル・後円部径約25~27メートル・前方部幅30メートルと推定される。周濠は持たない。 現況では葺石等は認められない。確認調査では円筒埴輪・形象埴輪が出土した。内部主体は明らかでないが、円筒埴輪の示す時期から後円部に横穴式石室が存在する可能性がある。出土遺物より6世紀中頃の築造と考えられる。 古墳は前方後円墳である点に加えて、佐賀平野西部における6世紀代の前方後円墳の中で最も規模の大きなものであり、墳丘もかなり良好に遺存している。また県下最大規模の船塚古墳(5世紀中頃)の系譜上にあるものと思われ、当地域の首長墓の系列を知るうえで重要な遺跡である。
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船塚古墳
史跡
船塚古墳は脊振山地南麓のゆるやかな傾斜地に築かれた県下最大の前方後円墳である。北および東西の3方を山で囲まれて前方部を南に向け、全長114メートル、後円部は径63メートル、高さ10メートル、前方部は幅62メートル、高さ9メートルで、前方部と後円部の規模がほぼ等しい。墳丘は3段に構築され、周囲に幅12~18メートルの周濠が巡っており、これらの形態は古墳中期の特色を典型的に示すものである。墳丘上には花崗岩円礫の葺石(ふきいし)が認められ、また後円部頂から家形埴輪(いえがたはにわ)が出土している。 埋葬主体部は明らかでないが、後円部上に明治期の盗掘坑があり、内面が赤く塗られた竪穴式石室であったと伝えられ、盗掘時の出土とみられる大型勾玉(まがたま)1個のみ採集されている。 本古墳のもう一つ重要な特色は、その周囲を径12メートル前後の円墳が取り囲んでいる点である。現在7基残るが、かつては11基あったという。畿内の王陵に見られる陪塚(ばいちょう)に似た状況を示し、九州ではきわめて珍しい例といえる。 築造年代は5世紀中頃と推定される。墳丘の構造や周濠・陪塚の存在など、豪壮な規模を有する前方後円墳として注目される。
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華蔵庵跡
史跡
寛文9年(1669)、佐賀藩2代藩主鍋島光茂による円蔵院住職村了和尚の処刑に抗議して高伝寺11世湛然和尚は筑前へ出国しようとした。光茂は国内に留まるように願い、松瀬の地に隠居寺として一宇を建立し、寺地7反余(70アール)、山林4町5反(4.5ヘクタール)を附して10石を扶持し、華蔵庵と名づけて高伝寺の末寺とした。湛然和尚は晩年をこの庵で過ごした。 「葉隠」を口述した山本常朝は、華蔵庵で延宝7年(1679)4月3日に、湛燃和尚から血脈を受けた。湛然はここに足掛け12年住み、延宝8年(1680)11月10日に没した。
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肥前国分寺跡
史跡
肥前国分寺跡は佐賀市大和町大字尼寺字真島(通称、国分)にある奈良時代の寺院跡である。佐賀市街北方約5キロメートルの脊振山麓の嘉瀬川で形成された扇状地の東端に位置する。 肥前国分寺の造立年代は不詳だが、聖武天皇による国分寺・国分尼寺造立の詔は、天平13年(741)に出されており、そのころに造られたと思われる。 寺域は2町(1辺約216メートル)四方で、西辺で西門と外溝、西南隅の築地痕跡、東辺で築地と外溝、南辺では外溝が確認されている。 伽藍配置は中央に金堂、北側に講堂、東南方に塔を配置したものと考えられており、おそらく中門に取り付く回廊がこれらの建物を取り囲んでいたと推定される。金堂跡と推定される建物基礎跡は、南北39.4メートル、東西20.8メートルに復元できる。その上に4間×9間(13.2メートル×33.3メートル)の建物が復元想定される。講堂は僧侶たちが修学する場でその詳細は不明であるが、礎石等の散乱の状態や、整地上の状況から金堂の北側に位置していたと推定される。塔跡と推定される基壇跡は、南北24.9メートル、東西25.4メートルのほぼ正方形に近い掘り込み地業基壇(基礎づくり)である。塔については、金堂の東南約40メートルのところで、講堂、金堂との位置関係から七重塔と考えられている。 また寺域の東側では瓦窯4基が発見されており、出土軒瓦はすべて鴻臚館系のものである。創建瓦は複弁蓮華文軒丸瓦と均正唐草文軒平瓦で、ほかに鬼瓦、道具瓦も出土している。
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導善寺前方後古墳
史跡
導善寺前方後円墳は池上集落の中ほどにあり、全長60メートル、一段の前方部を西側にとり、幅20メートル、長さ23メートル、高さ1メートルを側り、後円部は2段で径38メートル、高さ4メートルを測る。築造年代は、5世紀前半と推定される。前方後円墳の発生については不明な点が多いが中央政権の成立と大きくかかわることなどから大和における古代史の謎をとく大きな鍵の一つと思われる。また前方後円墳という珍しい墓型を将来のため保存、活用することは大きな意味をなすものと思われる。