朝倉弾蔵尚武

  1. 人物
  2. 人物
  3. 検索結果
  4. 朝倉弾蔵尚武

朝倉弾蔵尚武

■所在地佐賀市本庄町
■年代近世
■登録ID881

明治7年(1874)4月13日早朝佐賀城内の刑場の露と消えた朝倉尚武は、通称を弾蔵という。天保13年(1842)佐賀藩士の家(東寺小路、久納屋敷の南)に生まれ、弘道館に学んだ。特に兵学に優れていたという。
維新戦争では、佐賀藩隊の軍監付きや小隊長として奥羽に転戦凱旋後、東京遊学を命ぜられて昌平黌に入り、明治4年(1871)に帰郷した。
この年、佐賀藩の兵制改革で二個大隊が編制され、一番大隊長に任命された。
廃藩置県の際には、政府の命令で、一大隊を率いて上京。陸軍少佐として東京鎮台に入った。間もなく帰郷して養蚕を始めた。明治6年(1873)に佐賀県権大属となったが、8月辞職して上京。10月征韓論が決裂して副島、江藤の辞職に遭い、江藤と協議の上、11月佐賀に帰った。
そして、同志の中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八、櫛山叙臣らと協議して征韓党を組織し、朝倉、中島、山田と隊伍の編制を担当した。
佐賀戦争では、征討軍に対する陽動作戦として三瀬峠に陣し、福岡県早良郡内にも出没した。六角耕雲、勝谷親康、今泉千枝らが幹部として戦ったが、戦い利あらず、朝倉は後事を六角耕雲に託し鹿児島へ走った。3月10日市来駅で官憲に自首、佐賀に護送されて斬罪となった。34歳。
三瀬峠(佐賀市三瀬村大字三瀬字境峠、福岡市早良区大字曲渕との境界の峠)における朝倉勢はわずか10挺の小銃しか持たなかったが、征討軍と福岡県貫属隊を大いに悩ませた。これを見た征討軍の山田顕義少将が「ここの佐賀兵を指揮しているのは、多分、朝倉弾蔵に違いない」と言ったという。
明治16年(1883)ごろ、司法卿時代の山田顕義が佐賀を訪れた際に、乾亨院(佐賀市中の館町)にある朝倉弾蔵の墓に参った後、山中一郎の墓参もして両家に香典を届けたという。山田は朝倉とは陸軍少佐時代の旧友であり、山中には、山田が外遊したとき世話になったからということらしい。
また東京で朝倉が江藤に会った時、江藤が「もし佐賀で挙兵したら何人ぐらい集まるか」と問うと、朝倉は「二個大隊ぐらい集まる」と答えた。後で朝倉は「実力では二個大隊どころか、二個小隊もない」と語ったという。
朝倉は豪快な武人であった。友人の徳久恒範が朝倉に「鹿児島の桐野利秋に会ったらどうか」と勧めたところ、朝倉は「桐野は単なる人殺し男である」と答えながら、続いて「それでも桐野が自分と事をともにするというなら自分は辞せない」と桐野を褒めた。そこで徳久が桐野をなじると、朝倉は「もし桐野と自分が同数の兵力を持って戦ったら、自分が桐野の首を頂戴できる。」と言って大笑いしたそうである。
幹部12名と共に賊徒の汚名を受け処刑されたが、その後明治22年(1889)2月11日に大赦令により青天白日の身となる。
墓は中の館の乾亨院にある。(乾亨院は水ヶ江城の本館のあった所で、永正年間(1504〜1521)に龍造寺家兼が建立したと言われ、水ヶ江龍造寺家の一門、特に諫早家の祖を祀る。四徳山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は聖観世音菩薩、明治7年の佐賀戦争で戦死した熊本鎮台兵の合葬碑がある。)

出典:かたりべの里本荘西分P.91本荘の歴史P.24