真崎 照郷(てるさと)藍綬褒章に輝く発明王

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真崎 照郷(てるさと)藍綬褒章に輝く発明王

■所在地佐賀市巨勢町
■年代近世
■登録ID668

製麺機の発明で知られる真崎照郷(てるさと)は、天才的発明家で立志伝中の人であるが、その血のにじむような努力と苦労は世にあまり知られていない。嘉永5年(1852)12月12日、巨勢町高尾に生まれた。家は代々酒造業で、父は手腕家で世の信望も厚かったが安政3年35歳で亡くなった。この時、彼は6歳。父は「世を益し名を挙げよ」と遺訓したという。父の死後、賢婦人で家業の切り盛りを一人で行なう母親の手で養育されたが、母は「立派に家名を挙げ先祖にむくいよ」と戒めていた。彼は少年時代、政治家になるより、自分は世に生きる道は他にあるのだと考えていたという。
少年の頃、彼の心を強く刺激したのは、蒸気機関の発明者ジェームス・ワットの話であった。ワットの生命が蒸気機関の上に永久に生き、人類のために多大の貢献をしていることを考えた彼は、自分も前人未踏の発明界に身を投じ、世のために尽くしたいと決意した。こうして、最初の発明は、青年時代、軍籍時代の測量の体験から生まれた測量器真崎円度の発明で、明治7年24歳の時であった。
彼は、助手と共に測量のため田園を奔走していた時、麦畑の麦に気をとめた。麦の実は安いが麦粉からの素麺はその4倍の値になる。そこで、神埼などの手延素麺のような手間がかかり、熟練者でなければ市場価値として製品化できない状態ではなく、機械製麺にしたらどうだろうかと思いつき、明治9年26歳の頃から、製麺機の考案にとり組むことにした。こうして、研究、試作、失敗と製麺機の発明のための狂人的な生活が始まった。家業は使用人に任せ、酒造場は失敗した試作品の山と化した。知人、親類は、無謀な計画を止め、家業に専念するように説いたが聞き入れず、ついに、家業はおとろえ、発明研究のために、先祖代々の資産、田畑も手放し、悲惨な境遇におちいった。そして苦労を重ね、第7回目の試作の後、明治16年春、製麺機と製麺法の発明が完成し、機械製麺という前人未踏の新天地が開拓された。明治9年研究を志して以来、8年間の苦心難行を越えた努力の結果であった。この後は、特許権の獲得に苦労をしたが、明治21年3月、麺類製造機械という名称で、最初の特許権を得た。この後、大正10年までの間、29種の製麺機関係の特許を獲得した。さらに博覧会などでの受賞は64回にも及んだ。日清戦争後、にわかに需要が高まり、業務拡張、職工増員をし、さらに大阪に分工場を設けた。36年、大阪での内国勧業博覧会で1等賞を得たばかりでなく、明治天皇・皇后陛下が製麺機を御高覧なさる栄誉を得た。日露戦争後はますます販路も拡大し、明治40年、藍綬褒章が下賜された。さらに、明治44年肥筑で陸軍大演習が行われたとき、行幸された天皇は、彼を久留米大本営に召され工業功労者として拝謁された。また、米田侍従が工場を訪問され、彼及び従業員一同にご訓告と励ましを述べられるという栄誉がなされた。真崎鉄工場は製麺機のほかに、電気を利用する機械が将来性があると察知した彼の計画で、電動機、変圧機、電気開閉機、鉱山機械にも分野をひろげ、その需要に対応して日本電気鉄工株式会社を大正7年に設立した。この会社は、電力機械灌漑を創案し、クリーク地帯の農業に多大の貢献をしたことで有名である。また、昭和初めの恐慌で、電気開閉器の部門を戸上電機製作所が継承することになる。彼は発明事業ばかりではなく、郷土の村治に大きな力を尽くした。明治23年から大正11年まで、村長、村会議員、学務委員などをつとめた。とくに、大正6年67歳のとき、八田江改修を提案しその基礎を作った。大正11年には、村より第1回名誉職表彰状を授与された。さらに、大正15年大正天皇から発明奨励金が下賜され、帝国発明協会から恩賜記念賞ならびに大賞が下付された。この年12月、県知事ほか多数の知人、村人の手で真崎照郷翁表旌記念碑が巨勢神社境内に建立された。そして昭和2年3月9日、77歳で病没した。真崎照郷翁は、郷土巨勢がもっとも誇る大偉人である。

出典:巨勢P.17巨勢町見てあるきP.15巨勢町の歴史散歩P.26