妙常寺 

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■所在地佐賀市兵庫町大字渕1897
■年代中世
■登録ID616

日蓮宗 本尊 護国大本尊(元冠の役の時、宗祖日蓮上人が身延山中で書いた大日本衛護大曼荼羅)
この大曼荼羅に西尊、四士、文殊、普賢、四天、二明、宗祖日蓮上人が梵字で表示されている。
由緒 現在妙常寺に合併されたが、その隣に元中年間(1380)頃、相良肥後守の発願によって建立された渕川山本照寺があった。開基は肥後守の嫡男日乗上人である。渕川城主、空閑参河守も本寺の檀家であったので、内室日恩大姉(龍造寺家兼の息女で直茂の養女、天文5年(1536)逝去)の墓も同寺にあり、位牌も安置されている。このような関係で御茶湯田1反4畝の外に田地1町3反7畝の寺領も得ていた。
その後隆信御代に当寺住持14世日秀僧へ祈禱を命じられ、また直茂夫婦より関が原の戦勝祈禱、勝茂よりも大坂陣の戦勝祈禱の命があり、寺領田地4町歩を得ている。龍造寺、鍋島家の信仰が厚かったが、しだいに寺運衰え、隣寺妙常寺に合併された。
妙常寺は後柏原天皇の永正年中(1510)頃小城地方の豪雄、千葉介胤繁が建立した寺で、寺領2町を有し、龍造寺、鍋島両家の尊信も厚かった。100年前、寺家究調の際、寺領没収の災難にあったが、住職順法院が納富治部太夫の兄であったことから屋敷若干を下付された。当時は旧藩時代、日蓮宗12か寺の一つとして色衣聖人の寺格で優遇されたが、幕末の廃仏毀釈の大変革によって退廃した。しかし当山中興27代日孝上人(大正9年8月遷化)続いて28代真木孝淋上人などの不断の精進による布教、伝道の結果、遂に昭和元年、2万数千円の巨額の寄進を得て、現本堂の大改築が成就した。

出典:兵庫町史p204

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