成富兵庫とその恩恵1 

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■所在地佐賀市兵庫町
■年代中世
■登録ID601

成富兵庫茂安は、永禄3年(1560)佐賀郡鍋島村増田で生まれた。父は成富信種といい、隆信に仕えた勇将である。兵庫は幼名を新九郎信安、後に茂安と改めたが、信は隆信の信、茂は直茂の茂を賜わって改めたものである。「鍋島家に成富あり」と他藩にせん望された。加藤清正は1万石をもって任官を勧めたが、「譜代の主家を捨てられぬ」とこれを断った。
直茂が今山の敵陣を襲った時、茂安は父信種に出陣を願った。父は固くこれを止めたが聞かず今山に行き戦場を見て帰った。茂安11歳の時である。直茂はこれを賞して左右の臣として重く用いた。以後国内を始め筑前、筑後、肥後、薩摩などの戦いに従軍すること数十年、至る所敵なしで幾多の戦功を立てた。朝鮮の役では鍋島茂里とともに、藩の先鋒となった。吉州の戦いでは、その一隊で敵の大軍を斬りまくり、唐島の戦いでは敵船数隻を捕獲している。また上国に使者となり、あるいは諸侯に往来し、その応待は見事であった。
とくに彼の治績は、土木水利にかつ目されるものがある。市の江川の末流を引いて、巨勢の荒野に流入し、兵庫の沃野を開拓したことは、郷土史の上で忘れることはできない。また永島川を改修し、三法潟郷に新田を開墾し、三根の諸村に樹木を植えて佐賀城を隠し、遠くから見えないようにした。佐賀城を別名沈み城というのはこうした意味だともいう。
成富兵庫の水利土木工事のうち、最大なものは石井樋の天狗鼻、象の鼻の施工である。この結果、灌漑と飲料水は確保され、支流末流に至るまで水量豊かに、広く幾万の人々の生活を潤した。また千歳川の築堤は、北は千栗村から南は坂口村に及んだ。その長さは12km余、外堤には竹を密植し、水漏れを防ぎ、本堤には多数の松を植えて堤防を固めた。この堤防が完成してから佐賀の東方地帯は、例年の水害から免れることができた。

出典:兵庫町史p66

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