真崎義男

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真崎義男

■所在地佐賀市兵庫町
■年代近代
■登録ID581

氏は明治42年9月27日、若宮で生まれた。父は与一、母はシマの末子である。父は氏の生後10月の時に死亡し、母は12歳の長男以下5人の子どもを抱え苦労を重ねた。幸に母の生家は隣村で伯父は村長を勤める名家で、祖父母の愛撫と援助によって成長することができた。
7歳のころ、ふとしたことで足が痛みだし、医者からリューマチと診断され、以後2年近く尽せるだけの治療と看護を受けたが、下肢の強直は回復せず、遂に竹の杖にすがって歩く身となった。学問の好きな氏は学校近くに行っては子ども達の勉強ぶりをそっと見ていた。氏は当時窓辺で聞いた「夏も近づく八十八夜……」の茶摘みの歌が忘れられないという。
「やっと復学することとなり、学校側では留級の可否が論議されたが、1年生当時の担任であった吉岡先生の主張が通り3年生に編入された。勉強は好きであったが体操は出来ないので、体操の時間はいつも教室で1人こつこつと自習していた。氏は勉強が出来たせいか、人にいじめられることもなく順調に成長した。6年に進級し、親類や村人までが仕立職人がよい、針うちさんがよいと勧めたが、船津先生が「こんな頭のよい子を進学させないのは惜しい」と、兄弟達を説得し受験することとなり、見事に佐賀中学へ入学することができた。
氏が中学5年になると、校長は裁判官に、国語の教師は脚本家志望にと勧めたが、家族の者の意見で歯科医がよかろうと昭和3年4月、大阪歯科医学専門学校に入学した。当時の経済不況は「大学はでたけれど」という映画のように、東大卒業のいなか廻りの警察官がいた程である。「白米1俵、4斗入りで農家の売価が5円」下宿料は1か月20円から28円程度で、遊学するのも並大抵ではなかった。転々と下宿を探しては代り、家庭教師や歯科医師の手伝いなどをして学費を稼いだ。やっと学校を卒業して、昭和8年1月、正式に真崎歯科医院を開業し食うだけは困らなくなった。しかし、昼間は京都府立医科大学の選科研究生第1号として、なお歯科研究に打ち込んだ。夜間は自宅で開業医として働き、よくも体が続いたものだ。
そのころ、真崎歯科によく遊びにきていた陸軍少佐、間野氏の勧めで香川県人、篠原正一の長女、とし子さんと結婚した。氏は26歳、妻は22歳であった。まもなく2児の父親となった。日支事変は泥沼に入り、研究を止めて伏見とさらに河原町四条の両方で開業した。 

出典:兵庫町史p225