大野代官所跡

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大野代官所跡

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■所在地佐賀市富士町大字大野 佐賀市
■文化財指定状況佐賀市 史跡
■文化財指定日平成14年6月24日
■登録ID5245

大野は国道232号線に沿って神水川流域左岸に位置し、江戸時代は山内(さんない)郷に属していた。佐賀藩領であったが、元和3年(1617)に鍋島元茂(もとしげ)が小城支藩の初代藩主となった際に、佐賀藩より分知され小城藩領となった。
代官所設置の時期は明らかでないが、小城藩では天保9年(1838)に遠隔地である山代郷と山内郷に目代を置いた。目代の職務は代官以下の監督、軽罪の裁断、刑罰の執行、治安の維持、納税に関する事務などであった。安政6年(1859)年3月には小城藩士富岡敬明(とみおかけいめい)が2代目の目代として大野に赴任している。また、江戸後期の大野が記載された地図が二葉あるが、そのうち『小城山内』図には代官所が記載されておらず、『小城郡山内郷大野村見取絵図』には代官所として冠木門(かぶきもん)と建物が描かれていることから、設置は江戸後期であろうと考えられている。
この地は、福岡藩や唐津藩に通じる交通の要所にあり、また国内情勢が不安定になってきたことにより設置された可能性が考えられる。
当時の様子を伝えるものは石垣と石段のみで、石垣で囲まれた3段の敷地内にどのような建物が建っていたかは明らかでない。石垣は、石材を斜めに落とし配置する「谷落とし積み」を意識した積み方で築かれており、石垣の勾配は、上部の石材になるほど徐々に急になっている。また隅角部(すみかどぶ)は、長方形の石材を長い面と短い面を交互に積み上げる「算木積(さんぎつ)み」を意識して積んである。これらの技法は全国的にも通常は城郭にしか見ることができず、一般的に用いられるものではない。佐嘉藩の土木技術の高さを示すだけでなく、佐賀県を代表する土木遺産のひとつであり、土木史の研究においても貴重な遺跡である。残存状況も極めて良好で、県内に残る数少ない江戸時代の遺跡として、重要かつ貴重なものであり、卓越した石垣構築技法を持つ技術集団が存在していたことを確証させる貴重な事例になる。
石段は6段あり、幅約6メートル、高低差は約2メートルを測り、代官所の正門に続く石段とみられる。
その後維新をむかえ、明治五年には上瀧空蝉が初代戸長として就任し、明治十七年藤瀬に役場が設置されるまで代官所は戸長役場として機能していた。その後明治二十五年頃に南側一段目に建っていた瓦葺白壁塗の土蔵が解体移築され、同四十一年頃には馬繋場の北側に築かれていた高3メートル幅7メートル程の石垣塀と、最上部の2メートルの石垣が取り払われたと伝えられている。